翌朝、目が覚めると窓の外には雲一つない青空が広がっていた。昨日の激しい春の嵐が嘘のように、穏やかな土曜日の朝だった。
ベッドの中で寝返りを打ちながら、僕はぼんやりと天井を見つめた。昨日の出来事は夢だったのではないか。ワインレッドの傘、透き通るような肌、そして「夏実」という名前。あまりにも出来過ぎたロマンチックな出会いに、自分の記憶すら疑いそうになる。
慌ててサイドテーブルからスマートフォンを手に取り、連絡帳を開いた。そこには間違いなく『夏実』という二文字と、彼女の連絡先が登録されていた。夢じゃない。あの甘い花の香りは、確かに僕の隣にあったのだ。
「……よし」
小さく深呼吸をしてベッドから起き上がると、僕は身支度を整えて近所の馴染みの喫茶店に向かった。一人きりの静かな部屋にいると、どうにも落ち着かず、彼女に送る最初のメッセージをどう打てばいいのか分からなくなってしまったからだ。
カランコロン、とドアベルを鳴らして店内に入ると、深く焙煎された珈琲の香りがふわりと鼻をくすぐった。カウンターの隅の席に座り、いつものブレンドコーヒーを注文する。マスターがサイフォンで丁寧に淹れてくれる珈琲の香りは、いつもなら僕の心を落ち着かせてくれるはずだった。しかし今日ばかりは、鼓動が早まるのを抑えることができない。
湯気の立つカップを前に、僕はスマートフォンをテーブルに置いた。画面を見つめ、メッセージアプリを開く。
『昨日は本当にありがとうございました。無事に帰れましたか?』
いや、固すぎる。
『おはようございます! 昨日は楽しかったです。さっそくイタリアンに行きませんか?』
少し馴れ馴れしいだろうか。
文字を入力しては消し、また入力しては消す。たかが数十文字の文章に、これほどまでに頭を悩ませたことはなかった。仕事の重要な取引先へのメールよりも、はるかに緊張する。珈琲が少しずつ冷めていくのも気にせず、僕は画面と睨み合った。
十五分ほど悩んだ末、ようやく一つの文章を作り上げた。
『昨日は突然の雨の中、本当にありがとうございました。おかげで風邪をひかずに済みました。夏実さんも体調を崩されていませんか? もしよろしければ、お礼にお話ししていたイタリアンに行きたいのですが、来週の土曜日のご都合はいかがでしょうか。 健人』
送信ボタンを押す瞬間、指先が微かに震えた。
「ええい、ままよ」と心の中で叫び、画面をタップする。送信完了のマークがついた直後、僕は逃げるようにスマートフォンを裏返しにしてテーブルに伏せた。
そこからの数十分は、まるで拷問のように長く感じられた。冷めきった珈琲を胃に流し込みながら、何度もスマートフォンを裏返しては溜息をつく。既読にならない。忙しいのだろうか。それとも、やっぱり迷惑だっただろうか。昨日の彼女の笑顔は、ただの社交辞令だったのかもしれない。ネガティブな想像ばかりが膨らんでいく。
その時だった。
『ブブッ』
テーブルに置かれたスマートフォンが、短く震えた。
心臓が跳ね上がる。急いで画面を見ると、そこには『夏実』からの新着メッセージの通知が光っていた。
『健人さん、こんにちは! 連絡ありがとうございます。私も風邪はひいていませんよ。来週の土曜日、空いています。とっても美味しいイタリアン、楽しみにしていますね😊』
画面の向こうで、あの太陽のような笑顔が咲いているのが目に浮かぶようだった。安堵と喜びで、思わず顔がにやけてしまう。周りの客に変な目で見られていないか心配になったが、そんなことはどうでもよかった。
すぐに返信を打つ。
『よかったです! では、来週の土曜日の18時に、駅前の時計台の下で待ち合わせでいかがですか?』
今度は、すぐに『既読』がつき、数秒後には返信が来た。
『わかりました! 18時ですね。今から来週が待ち遠しいです。』
そこから、僕たちはまるで堰を切ったようにメッセージのやり取りを続けた。好きな映画の話、今日お互いが何をしているかという他愛のない報告。文字だけのやり取りなのに、なぜか彼女の体温がすぐそばにあるように感じられた。
『なんだか、文字だけだと少しもどかしいですね』
僕がふと、そんなメッセージを送ると、数秒の間を置いて、画面に『着信中』の文字が浮かび上がった。夏実からだった。
慌てて店を出て、路地裏に駆け込みながら通話ボタンを押す。
「……もしもし?」
「あ、ごめんなさい。いきなり電話なんて迷惑だったかな。でも、私も同じこと思ってたから」
耳元から聞こえる、少しだけ照れたような彼女の声。昨日の雨音に遮られていた声よりも、もっとクリアで、甘く、鼓動の奥を直接撫でられるような感覚に陥った。
「ううん、全然。すごく嬉しい」
「ふふっ、よかった。健人さんの声、昨日より少し低く聞こえる。落ち着く声ですね」
その言葉に、僕の顔は一気に熱くなった。
週末の昼下がり、路地裏の壁に寄りかかりながら、僕たちは一時間以上も電話で話し続けた。互いの声のトーン、息遣い、笑い声の余韻。そのすべてが愛おしく、脳の奥が痺れるような甘い熱を帯びていくのを感じていた。
電話を切る頃には、僕の心はもう完全に彼女の虜になっていた。
たった一度の雨宿りと、珈琲一杯分の時間のメッセージ、そして一時間の電話。それだけで、僕の世界のグラデーションは、夏実という色で鮮やかに塗り替えられてしまったのだ。
来週の土曜日が、永遠のように遠く感じられた。早く彼女に会いたい。その瞳を見つめ、その香りに包まれたい。止めどなく溢れる情熱の予感が、僕の胸の中で静かに、しかし確実に炎を上げ始めていた。