こんにちは🌞

『安達としまむら』というライトノベル、および、アニメはご存知ですか?

僕はつい最近アニメを観て、その勢いで原作であるラノベも全巻購入して、読破しました。

最初に言っておきますが、この作品は百合ものです。
そこに抵抗を覚える人もきっといるでしょう。
僕がBLものに興味がないように。

ただこの作品は、非常に文学的で、
心に響いた言葉とたくさん出会いました。

百合もの、というジャンルを拒む人も、
一度フラットにこの作品に触れてみて欲しいです。


それでは『安達としまむら』にて心に響いた言葉をまとめます。




特定の場所にあることを好まず、
五感がそれぞれに手足を伸ばしてだらける。
イメージを持ちながら肩の力を抜ける、
そういう瞬間が好きだ。
そこを踏まえれば、
わたしは一人でいる方が好きなのかもしれない。
誰かと一緒にいれば、
感覚は内側を向くことを許されなくなる。
(『安達としまむら』p.91)


この章はしまむら視点で物語が進みます。
特にここの文章はしまむらの考え方の基盤を理解するうえで重要となってくると思います。

しまむらが「好きだ」と断言する事は序盤ではほぼないので非常に珍しいです。




だから人といることはほんの少し、苦痛を伴う。
理解できないこと、面倒なこと、
関係のこじれに伴う修復、解体への労力。 
だけどそうした負の面の隙間に、
幸せは転がっている。
(『安達としまむら』p.92)


同じくしまむら視点。
安達といる時に、安達を不快にさせないように頭を使っていた時に出てきた思考。

これはアニメで観た時から印象的な言葉でした。
(メモしてあるくらい)

こういう考え方、言い回し(?)に惹かれて僕はラノベデビューしたわけです。(突然の告白)




一人は退屈だ。
それは孤独よりずっと辛い、耐えがたい病気だ。
わたしを変成していく悪性の病気に対抗する薬は、人との間に生まれる見えないものしかないんだろう。
だから、わたしはこれからも磨耗していく。
自分を保つために、少しずつ失っていくのだ。
(『安達としまむら』p.204)


こちらもしまむら視点。

一人でいる事、孤独でいる事に慣れている安達とは対照的なそれなりに色んな人と関わってきたしまむらだからこそ出てくる思考ですね。




人間関係というのは形がないまま漂うことでしか維持できないものなのだと思う。
友達とか、家族とか。
必要以上の肉付けをしようとしても、
中身は空洞になっていくだけだから。
目に映らないものを映るようにすると、
見えないという価値が失われて
別のものへと変質する。
そうして見えたものは、
最初に見たかったものとかけ離れていて、
暴いてすらいないのにそれが本質だと勘違いして、失望する。
(『安達としまむら2』p.34)


こちらもしまむら視点。
しまむら多いな。というかしまむらの思考に惹かれて読み始めたのだから当たり前なのだけれど。

このシーンでは
「家族とは普通こういうもの。」
「母親とは普通こういうもの。」
と安達母に伝えたいはずなのに定義してしまうと何か違う気がしてしまうような、多分人間関係って理屈じゃないからきっと文章に出来ないんだろうな。




以前にだれかが言っていたけど、
一人で完成されて生きる人間は、
もう人の範疇からははみ出している、らしい。
人間という生き物としてのバランスが崩壊しているのだから、別種の生き物と捉えるべきだ、
だったかな。
(『安達としまむら2』p.41)


しまむら視点。

この文章から安達としまむらは違う生き物なのだと確信に近いものを感じられます。

『人間』というひとくくりの生き物としてまとめられない、と改めて感じました。
それは人種や性別などだけじゃなくて、むしろ見た目じゃなくて内面。

極論、人のために命を落とす人もいれば、訳もなく人を殺す人もいる。
そこまで考え方が違う者同士が分かりあうのは難しい。
ここまで極端じゃなくても相手の全てを理解する事なんてほとんど出来ないから、人の数だけニンゲンの種類があるんだなぁ、と哲学じみた事を考えてしまいました。




しまむら本人より、しまむらのことを考えているんじゃないだろうか。
でもそれは、しまむらのことを多く理解しているということには繋がらない。
池の周りをぐるぐるといくら回っても、
池の水の冷たさやなにが潜んで暮らしているかを
知ることできないようなものだ。
(『安達としまむら2』p.59)


こちらは安達視点の言葉。
例えが素晴らしく分かりやすかった。

池の周りをぐるぐる回って、その池を多く理解しているように振る舞う人にはなりたくない、と感じました。僕自身そういう人嫌いなので。

でも事実としてそういう面は、誰にもあるんだろうな。
冒頭で書いた通り、僕がBL作品に触れないように。




わたしの一番と安達の一番は、同じ言葉でありながら高さが異なる位置にあるのかもしれない。
わたしの一番は近所のコンビニに出かけるぐらいの気軽さで辿り着けるけれど、
安達の目指すものの高さは、
翼でも生えていないと無理なんじゃないかと思うほど、上空にありそうな気がしてきた。
(『安達としまむら2』p.230)


しまむら視点。

これ、非常に共感しました。

大学に入学したての頃、割とすぐに出来た友達が
「○○(僕の知らない人)は俺の親友だよ」
的な事を言っていて、
「いつ出会ったの?」と聞くと
「大学で」と言われて驚愕&ドン引きしてしまいました。

だって入学してまだ1ヶ月弱ですよ?
それで親友と呼べる人を作っただなんてあり得ない、と思うじゃないですか。

まあでも実際、親友に時間なんて関係ないのかもしれないけれど、少なくとも僕は親友って相手から言ってくれないと断言出来ない感がある。から人によっては親友と呼べる距離感と思われるかもしれない友達も僕にはいるし。

つまり人によって関係性の深さ、というか親密度って全く同じ触れ合いだったとしても異なるんだなぁ、と感じました。




人付き合いというものは始めるより、
終わらせる方がよっぽど難しい。
たとえば、今この場で安達の手を振り払えるか?
と考えれば、それはできない。
手を繋ぐような流れの中でここまで生きてきたのだ。
わたしの昨日も、明日も、
流れに身を任せて進むしかない。
そこから大きく、外へ一歩踏み出すには相応の決意とか覚悟がいる。
(『安達としまむら3』p.22)


しまむら視点。

んー、個人的には終わらせる方が楽だと思うけど。
まあ終わらせる事が出来ない関係を構築してしまったならそれは難しいだろうね。

僕も今後もずっと繋がっていくだろう人達と関係を断つのは難しい。
というか関係を断つ理由がないのだけど。




理由に順番なんてなくてもいい。
根幹に根ざしていなくとも、因果関係などねじ曲げて成立させてしまえばいいのだ。
(『安達としまむら3』p.88)


安達視点。
この思考こそ安達の行動力に繋がる。

安達としまむらは正反対の面が多いけど、
重要な事を後の自分に任せる事が多い、という点が似ている気がする。
リゼロのスバルみたい。死に戻り。。

ただそれは「明日やろうは馬鹿野郎」的な意味じゃなくて、
「今ここで悩むくらいなら」的な前向きな思考への転換の根本となっていると思う。
しまむらは単にめんどくさがっているだけかもだけど。




思いやっても、意図がなくても
一緒にいれば一つか二つは相手と
『あ、噛み合っているな』
と感じられることがある。
その偶然による一致が、
人間関係の醍醐味というやつかもしれない。
(『安達としまむら3』p.128)


しまむら視点。

人間関係をめんどくさがっているようなしまむらがその中で醍醐味というポジティブな面を発見しているのが珍しいですね。
醍醐味ってポジティブな面ですよね?!




昔の友達というのは、そういうものだ。
当時は噛み合った歯車のように綺麗に回っていた私たちの時計が、
今では別々の時間を指し示している。
重なるためには何周必要なのだろう。
(『安達としまむら3』p.141)


しまむら視点。

やはり友達に濃度はあるな、と改めて感じられる文章。
誰だって街中で会った知り合い全てに挨拶するわけではないし。

でもそんな関係が薄くなった人ともいつか濃い関係になる可能性はあるのだな、と感じられます。




『悪くもない』も、悪くないけど。
いいものだ、と思えるときがわたしにもいつか来るのだろうか。
(『安達としまむら3』p.142)


しまむら視点。
これまた序盤のしまむらの思考を凝縮したような文章。




人は過去になにを見出すだろう。
幸せだった世界、
純粋無垢だった自分、
忘れてしまいたい傷。
色々な足跡が見えてくる。
どれもわたしにだってあるものだった。
だけどわたしの過去は茨で繋がっていた。
触れると未熟な自分に傷つけられる。
引き寄せようとすれば、
手のひらは、今の自分はきっとずたずたになる。
取り立てて嫌な思い出はないけれど、
昔の自分が今とあまりに違いすぎて、
直視したくない。
そういう意味でわたしは保守的というか......
意外と自分が好きなのだなぁと自覚する。
(『安達としまむら3』p.172)


しまむら視点。

「悪くない」ばかりのしまむらが何かを「好きだ」という珍しいシーン。

ただ今回における“何か”はしまむら自身なのだけれど、
これは「自分の事が好き!」というより「自分の事を大切にしている。」という意味合いだと思う。
どちらも同じようなんだけれど、言い方を変えると、「自分を傷つけたくない」的な。

好感というよりは安定。まさに保守的な思考。




ヤチーの事情は分からないけれど、約束は別にしてもいい。
守れないことより、できない方が悲しいとわたしは思う。
(『安達としまむら3』p.209)


しまむら妹の視点。

『安達としまむら』では主人公二人だけでなく、
周りの人物のサイドストーリーも描かれているので面白いです。
人それぞれ心の声とも呼べる文章の色が全然違っていて、読んでて楽しい。

このしまむら妹の文章は、比較的しまむらの思考に近いから、僕の胸に刺さりやすかったのかもしれない。




昔と今の自分、どちらが本当の私なのか......なんて。
考えるまでもなく、どっちも私だ。
本当の自分なんて今ここにしかいない。
そして私の今は、過去からちゃんと繋がっている。
その過程の変化を否定する気はなかった。
今の自分も、それなりに好きだから。
(『安達としまむら3』p.219)


安達視点。

しまむらが過去の存在を若干否定的に感じているのと対照的に書かれた文章だと思う。

安達はきっとしまむらに出会わなければ、一人でも生きていけるような人間だったし、そこに苦痛はなかったのだと感じられる。




どこまでも共に流れていくほど、
強い人間関係は滅多にない。
運命という川に長く浸れば、
絆もふやけてちぎれていく。
(『安達としまむら4』p.48)


しまむらの視点。

薄情に思われるかもしれない思考だけど、
しまむらはちゃんと大切にしてる強い人間関係もある、主に家族。

家族を大切にしているからこそ、薄い人間関係を築く必要性を感じないのかもしれない。
逆に家族ほどの関係を築きたいと思ってくれるほど熱い人はほとんどいないし。
まあ↑こう思っているのが安達なんだけどね。




つまり、自分の考えがみんなの考え、みたいに捉えてしまうことが結構あって、それが恐らく周りの人に強く関心を持てない理由の一つかなと思う。
だって自分と似ている相手なんて、知ってどうするのだ。
(『安達としまむら4』p.79)


しまむら視点。

ちょっと文章の趣旨とは異なるけど、
相手に興味を持つのは自分と違う点があるからで、まあ確かに自分との共通点を見つけて魅力、というか運命を感じる事もあるけど、
きっと全ての考えが一緒、みたいな相手はきっといない。

逆に僕は自分に限りなく近い思考を持った人間と出逢いたい。




私はやっぱり、一人で生きる方が向いている人間なのだと思う。
だけど適性と望むものが一致するとは限らない。
自分にできることをやっていこうというのはある種の正論を含んでいるけど、
ともすればそれは成長の放棄にもなりかねない。
できることだけをやっていても、
緩やかに衰退していくだけだ。
私は自分自身のために、
できないことをやらなければならなかった。
(『安達としまむら4』p.121)


安達の視点。

前述した通り、安達は一人で生きていける人間だった、少なくともしまむらという望みがなかったとしたら。

できない理由を探す前にできないことをしようとする前のめりな姿勢が安達の最大の魅力なのかもしれない。




現実を見るというのは間違いではないけれど、
だけど現実というものにこだわりすぎて、
理想をないがしろにすることは間違っている。
理想を持たずに動いて、なんの意味があるというのか。
それは行動じゃない、意思じゃない。
惰性と呼ぶのだ。
(『安達としまむら4』p.212)


安達の視点。

こりゃあ、名言ですね。
意志を強く持つ安達だからこそ、言える言葉です。

安達の行動の原動力がこの文章には詰まっているような気がします。




過去を振り返らず、前を見つめたまま大事なことを忘れないために。
思い出は必要なのかもしれない。
(『安達としまむら5』p.61)


しまむらの視点。

記憶だけではいつか消えてしまいかねないから、しっかり形として思い出を残すことは大事よね〜、とシミジミ。
なんかだんだんコメント少なくなってる気がするけど、それは気のせいです。




「......愛って」
思いがけず出てきた発想に、頬が熱くなる。
愛って、大げさ......でもない?
誰かを痛切なほど尊く想い、
その相手を知り尽くしたいと切望する。
それは大きな意味で愛と呼んで差し支えないと思う。
(『安達としまむら5』pp.135-136)


安達の視点。

5巻では、この作品史上最も苦しいシーンがあります。まあネタバレになるので割愛しますが、(名言まとめてる時点でネタバレというのは置いておいて)
その苦しいシーン後の文章。




しまむらと私は違う生き物なのだ。
だからいい。だから心惹かれる。
(『安達としまむら5』p.220)


安達の視点。

違う生き物だと割り切ったうえで、
しまむらが好きだということを改めて実感する。

普通割り切ってしまえば大抵諦める事が出来るはずなのに、割り切って受け入れて求める安達は、本当に心の底から、重〜いほどにしまむらを愛しているんだな、と伝わる文章。




善意は正面から心の扉を叩くもので、
悪意は隙間から忍び寄るもの。
そして無邪気であれば、付けいる隙を与えてしまう。
無防備に事態の悪化を招くことに、誰も同情なんてしてくれないし救いの手も差し伸べてもくれない。
傷つく前から、大体そういうことを理解する。
だから傷つけられる前に、わたしは、心の隙間をぬかりなく埋めた。
(『安達としまむら6』p.12)


しまむらの視点。

やっぱりしまむらは傷つく事を人一倍恐れているように感じられる。

常に保守的で、だからこそどこか寛容な面もあるのかな〜。




変わって生まれて満たされて。
老いて乾いて失われていく。
わたしはそこのところあまり分かっていなかった。
無知と無邪気の合わさった子供の頃から、なにも変わっていない。
(『安達としまむら6』p.62)

しまむらの視点。

この生と死の循環を深く分かっている人はあまりいないのでは?
分かっている人というより、実感している人。

人はいつか死ぬって事は分かっていても、自分に置き換えて想像する事は出来ても、実感する事は死ぬまで出来ないのだから分からなくて当然といえば当然ですけど。




だからだろうか、人に借りを作ることに大きな抵抗があった。
借りがあるなら気を遣わなければいけない。
優しくしなければいけない。
でも『しなければいけない』優しさというのは間違っている。
(『安達としまむら6』pp.93-94)


しまむらの視点。
これまた深い名言ですね。

僕も人に借りを作る事が嫌いです。
というか好きな人いないか。

どんなに信頼していてもお金を貸したくないし、借りたくない。すぐその場で返せる状況ならいいけど。

でも別にその根本にこういう思考はなかったから、新鮮でした。




なにも言えなかった。
でも、それも一つの意思表示だ。
割り切ることだけが答えじゃないのだ。
どうにもならない想いを抱えて、吐露できず、
それでも身をすり寄せたくなる。
そんな激情がわたしの中にもあったのだ。
(『安達としまむら6』p.111)


しまむらの視点。

故郷の犬、ゴンに対して抱いた感情。

しまむらが何か(生き物)をここまで深く想う描写は珍しいですね。




どんな根底であっても、相手を想い、
優しく『なれる』。
心の変化として最も素晴らしいものではないかと思う。
『しなければ』いけない優しさしか持たないわたしとは、ただ縁遠く。
(『安達としまむら6』p.155)


しまむらの視点。

『しなければ』いけない優しさを間違っていると感じていながら、自分がそうだと感じているのはなんだか悲しいですね。

しまむらは自覚していないだけで、安達や家族にも優しいと思うけどな〜、『しなければ』いけない優しさではなくて。

まあ、優しく『なれる』というのは、なろうと思ってなれるものではなく、それこそ愛がなければならないと思いますけど。




その突き抜けるような純心は、他の誰にもないものだった。
というよりそのままじゃ普通は生きていけない。
だからわたしも昔と比べれば性格や価値観が変質したわけで、このまま平気で生きていこうとするヤシロには、不安のような、或いは羨望のような、もしくは故郷のような......色んな思いが交差するのだった。
その無邪気さは時に爪となって、わたしの胸をかき乱す。
(『安達としまむら6』p.166)


しまむらの視点。

ヤシロは、本当に純粋無垢でめちゃめちゃ可愛いです。
「そのままじゃ普通は生きていけない。」という言葉が現実的で苦しいですが。
心の純度は、大人になるにつれて下がるかもしれないけど、0にしてはいけないな、とか思いました。




誰かを好きになるって、唐突なことなのだ。
計算とか、妥協とか、挟まる余地がない。
(『安達としまむら6』p.218)


しまむらの視点。

人付き合いはメリットではない、というしまむらの思考。

損得を考えて人間関係を構築する人は、
ある意味上手な生き方なのかもしれない。
ただそれでは誰と接していても本当の自分が見えてこない気がする。

やっぱこの作品には、人付き合いが理屈じゃないってことを何度も再認識させられるな。




いいことがいくら続いても、
不安になる必要なんてないのだ。
それは逆に、どれだけ不運が連続しても
なんの保証もないということだけど。
(『安達としまむら7』p.31)


安達の視点。

若干、不安な思いも抱えているのが安達の成長を感じる。
具体的にどうということではないけど、
時間が経つにつれて、(というか5巻を機に)
安達は望む未来だけじゃなくてそれ以外起こり得る結果を考慮する事が増えたなぁ、って感じます。




相手のためになにかするとか、
相手を理解しようとするとか。
そういうことが大事なんだって世界が教育してくる。
だから、今はそれに従ってみようと思った。
(『安達としまむら7』p.93)


しまむらの視点。

これまでのしまむらの考え方が6巻で起きた事を機に、変わる瞬間のようにも思える文章。

実際、これ以降、しまむらは自分の言動を省みて「良くなかったな」と反省する事が増えた気がする。




夜とは人の心だ。
暗く、遠く広がり、けれど時々瞬く光がみえる。
その光を、人は思い出という。
思い出の輝きがなければ、人の心は真っ暗に陥る。
(『安達としまむら7』p.170)


しまむらの視点。

時折、感じられるしまむらの『思い出』へのこだわり。
積み重ねをしてこなかったしまむらだからこそ、
思い出をしっかり刻みたいと思っているのかもしれない。




穏やかであるほどに、その先を見てしまう。
上手くいっているときほど、それが破綻することを意識する。
そういう心境が招いた暗闇は、思い出を遠ざけていく。
思い出は時間という水が注がれて薄くなる。
それだけは止められない。
残しておきたければ、濃くする他ない。
(『安達としまむら7』p.180)


しまむらの視点。

きっとしまむらは思い出の残し方を知らない。

あくまで僕の意見としては、
(誰がお前の意見聞きたいねん)
思い出は少しずつ色褪せてしまうけど、
それを思い返す事でまた色がつくようなものだと思う。

言い換えると思い返す事で色がつくような出来事こそ思い出なんじゃないかな。




「家に帰るとさ、親が昔話ばかりしてるの」
「うん」
「なんでだろうと思ってたけど、考えてみれば当たり前だよね。だってさ、年齢考えると未来よりも過去の方が長いし。そりゃあ、思い出話も多くなるよ」
「なるほど......」
「いつか、安達との話も思い出ばかりになるかもね」
(『安達としまむら8』p.12)

未来の安達としまむらの会話。

すごく「確かに。。」と思いました。(語彙力)




大人になったからなんでも解決するわけではなく。
むしろ、抱えなければいけない問題を置き去りにすることばかり覚えてしまうように思う。
大人になるにつれて賢くなるのは、
呪いのようなものかもしれないと時々思う。
(『安達としまむら8』p.15)


大人しまむらの視点。

今日の自分が悩むなら明日の自分の任せる、という考えだったしまむらにこのような考えが生まれることこそ、大人になったからなんだなぁ、と感じられる文章。




両親はわたしの生まれたときから大人だった。
わたしが生きて、死ぬまでずっと大人だ。
(『安達としまむら8』p.31)


大人しまむらの視点。

当たり前のようで今まで全く気づいていなかったことでした。
だからなんだ、という話ですが、
両親を、自分より先に生まれた人の年齢を超える事は出来ないんだなぁ、と当たり前のことに気付かされてハッとしました。




10年経っても安達と一緒にいるのかな、わたしは。
安達はわたしといるだろうけど、わたしはどうだろう。
よく分からないことを悩む。
なんだか哲学的だ。
多分、イコールにならないものは大体哲学だ。
(『安達としまむら8』p.63)

しまむらの視点。

最後の一文が非常にいい。
哲学ってまとめるだけでなんだか納得できる気がする。



漠然とは伝わってくるし、はっきりとしたらかえって仰々しいだけになるかもしれない。
感情は四角形より、円形の方が望まれている気がした。
(『安達としまむら8』p.71)


しまむらの視点。

相手の感情を事細かに分からなくても良いと言う人と全てを知りたい人。
前者はきっとしまむらやしまむらから見る樽見のことで、後者は安達。

そんな対比を感じられました。




自分にないものを人に求めるか、
それとも備わっているものを相手に要求するべきなのか。
どちらが誠実というか純粋というか、
普通なんだろう。
(『安達としまむら8』p.74)


しまむらの視点。

求める側と求められる側。
恋愛だけでなく人間関係ってこの二つから構築されていると思う。

ただ求める側にも、「何を求めるのか」は人によって異なって、何を求めたら普通なのかと疑問を持つしまむらは以前よりも『相手に何かを求めること』の価値を理解しているのだと感じられます。




彼女と話すときに気を緩めないで、
どこで気を休めるっていうんだろう。
でも親しい相手には格好いいとこも見せたいし、
好かれたいわけでそうなると余計に気が抜けないのか。
それはなんとも、肩凝りしそう。
難しいなぁ、恋愛。
(『安達としまむら8』p.92)


しまむら視点。

前述した通り、しまむらが徐々に変化しているからこそ出てくる言葉だと思う。

安達に「好かれたいわけで」って感じているしまむらがなんだか尊い。




掬い上げれば、たくさんの輝きの砂が手のひらを埋め尽くす。
良いことも悪いことも、光ってはいる。
その中からよかったことだけを選びとることはとても難しくて、
手のひらをじっと見下ろして考えるしかない。
思い出となって区別なく残るそれら全部をなんとなく適度に、
つまるところいい加減に纏めていけば、
わたしは安達と出会ってよかった。のだろう。
(『安達としまむら8』pp.118-119)


しまむらの視点。

昔、というか序盤のしまむらなら「出会えてよかったと思える日が来るのだろうか」って感じだったけど、
今も断言はできないけど、「出会えてよかった」と思えてるんだと思う。
でも結局それは今思っているだけで未来は不確定だから、また未来の自分に判断を委ねるように「のだろう」を付け加えてるのかな、と思いました。




人間関係の距離というのは、
往々にして自分から作ってしまうものなのだ。
(『安達としまむら8』p.120)


しまむらの視点。

これも安達としまむらに共通する数少ない一面だと思う。
まあ、安達はより無意識下でそうしてしまっているんだけど。




それでいいのかどうかなんて、今のわたしが考えることじゃない。
何が正しかったかなんて、後のわたしが決めればいい。
じゃないとそのときのわたしが退屈するから。
(『安達としまむら8』p.147)


しまむらの視点。

後回しにすることが怠惰だと感じられるかもしれないけど、悩むことで何も出来なくなるくらいならこのくらい楽観的でいいと感じられる文章。





「じゃあわたしって、なんだろう。」

いっぱい兄貴が生まれて、
最後に家にやってきたから。
どんな理由でわたしは、
日野の家に引っかかって留まっているのだろう。

「それは自分ではなく、
周りの人間によって変わるものなのよ」

江目さんは、今度は考え込む様子もなくぱっと答えてくれた。
(『安達としまむら9』p.94)


ここにきて日野視点の文章も紹介します。

日野はしまむらの友達で、これまでサイドストーリーとして日野視点で展開される事はあったけど、
こんなにガッツリは初めて。

というか9巻は、安達としまむらだけじゃなくて、安達母としまむら母、日野と永藤、しまむら妹とヤチーという様々な人間関係が描かれています。

ここでの江目さんの言葉にグッと来ました。




「晩御飯一緒に食べた方が楽しいじゃない」
うちの母親はこういうことを言う。
みんなで仲良くやれること前提で一切疑わない。
相手の事情だって知らないよと言わんばかりだ。
真似はできないけれど、この前向きさに救われる人だってきっといる。
(『安達としまむら9』p.157)


しまむら視点。

コミュニケーション能力が高い人は、
人見知りやコミュ障だろうとお構いなしに行くけど、「人の気も知らないで」と思うことはあっても、
その前向きさに救われる人もいるんだ、とは考えたことなかったので新鮮でした。




しまむらとはいつも、やることに困っている気がするから。
それでも一緒にいたいと思うのが、所謂好意というものの正体なのかもしれなかった。
(『安達としまむら9』p.164)


安達の視点。

自分の感情を理解するのが、上手いなぁ、と感じられた文章。

ちゃんと「やることに困っている」という負の面も踏まえて、「それでも好き」という安達のしまむらへの愛を感じられました。




「仲良かった友達は昔たくさんいたけど今はほとんど会わなくて、でも平気に毎日が過ぎてる。
もしかすると安達とのことだってそうなるのかもしれない」

今は握っていないその右手を、
ゆっくりと持ち上げる。
指先は宙をゆっくり掴んで、開きかけて。
でももう一度、固く握り直す。

「だから、いなくならないように一生懸命......
そう、面倒くさがらないようにしないとね」

「面倒」

「うん。相手をどう思っているかとか、
相手とどうありたいとか......
そういうのをなぁなぁで流してはだめで、
見失わないようにしないと。
その辺本当に慣れてくると
手癖みたいになっちゃってさ、
薄れていっても気づかなくなっちゃうんだ」

それはとても寂しいことなのだと、しまむらは語った。
(『安達としまむら9』pp.169-170)


安達の視点と、しまむらとの会話。

今の関係性だから話せること。
お互いの関係についてここまで深く話せるのが素敵だと思いました。

関係が薄れていくことに寂しさを感じているしまむらは序盤より明らかに人間味が増していますね。




そして、私には今にしかしまむらがいない。
少なくとも今この時は。
一年前はまだちゃんと覚えていて、そこにある。
だから昔じゃない。
私は、いつかしまむらと過去を過ごせるだろうか。
(『安達としまむら9』p.171)


安達の視点。

『今を生きる』というのは、
安達としまむらの共通点にもなっているとおもいます。

しまむらが『今を生きる』安達が「好きだ」と、言えるようになった事が感慨深いですね。




分からないけど、他人にしか見えないものもある。
私と安達ちゃん母の感じるものがまるで違い、
別のものが見えるように。
分からんから他人が必要だ。
(『安達としまむら9』p.179)


しまむら母の視点。

相手の事情を考えないと娘に思われている母だけど、
しっかり他人が自分とは違うことを理解していて、それでいて相手を否定することなく、自分を曲げることもない姿勢がこの文章に詰まっているような気がしました。






おわり


『安達としまむら』は、僕史上最高に好きなラブコメ作品です。(作者がこれはラブコメと言っていたので)

ラノベだからこそ細かい感情や心の変化が分かって非常にタメになる言葉とたくさん出会えた作品でした。

『安達としまむら』という文学に出会えた事は、
僕の人生に大きな影響を与えたと思います。

人生のバイブルの一つと言っても過言ではない。

それくらい素敵な作品なので、
是非触れてみて下さい^_^



読んでくださりありがとうございました🐤