2019年8月25日
こんなにつらいことばかりなのに、何故、生きなきゃならないんだろう
「つらいこと」が何を指すのかというと。
猫のことだ。
実は、よく夢を見るのだ。
ちょっとヘンタイな夢かも知れないが、いろんな願望というか渇望というか、魂の乾きとでもいうのか…。
「愛することに飢えている」とは、何故か思春期頃にすごく感じていた「乾き」だった。
「愛する対象」が欲しかったのだろうとは思うのだが、それが、どちらかというと人生の伴侶とか対等なパートナーではなかったのだ、ということを知ったのは、まぁ、もちろん思春期が終わって風切り羽も生えそろった頃だった。と、思う。
要するに、庇護する相手、慈しみ育てる相手が欲しかったのだ。
だから、犬や猫や鶏を飼ったのだろう。
そして、子育てを経験し、それがほぼ終了する頃になって、再びあの渇望が蘇ってきた、と思う。
夢の中に、よく赤ん坊や胎児が出てくる。その存在は狂うほど愛しくて嬉しい。
それが時に「仔猫」という姿を借りてくる。
或いは、現在家にいる猫たちも出てくる。
そのままのレフやハルくんも出てくるのに、何故か朱鷺(shuro)はその子たちに母乳を与えているのだ。(ごめん、変態チックで(--;)
その瞬間の至福を現実で味わったのは、やはり乳児に母乳を与えている瞬間のみだ。同じ感動を夢の中でうっとり味わう。
猫たちが、いずれいなくなってしまうことを、朱鷺(shuro)はずっと知っていた。
7匹の猫たちの姿を眺めながら、この幸せはいつかふいになくなってしまうことをずっと知っていた。いつでも、「これが最後かも知れない」という切羽詰まった思いで見つめていた。
それでも、悔いが残る。
いや、悔いではない。
いつか、と分かっていても、その「いつか訪れる不幸」に、打ちのめされている。
アルがいつもいた空間を見ては、こころがきりきりと痛み、道端で会ったふわが、足元をすりすりしながら一緒に家に帰ったことを何度も繰り返し思い出す。いたずらっ子だったチャコの小悪魔的な顔が鮮やかに蘇る。
仔猫をたくさん生んで育ててくれたロイチャ。最後はなんとなく疎遠になって、いつの間にか消えてしまった。
最愛のねむち。冷たくなったあの子の身体を抱いて号泣した朝を忘れることは出来ない。
猫を失うたびに、思う。
「こんなにつらいことばかりなのに、何故、生きなきゃならないんだろう」
何故?
あの子たちがいてくれれば、それ以外のつらいことはたいてい耐えていけるような気がするのに。