僕らなりの解を | 青年が見た世界の幻風景

青年が見た世界の幻風景

旧“青春を怪魚釣りへ”
青春の熱情も怪魚の浪漫も薄れた今、“知識の外側”のロマンを追いかける飽くなき現代の探求記。
追記 なぜか公式からジャンルをレストラン・飲食関係にされた。


テーマ:


今年初めてのフィールドは小学生の頃から通う久留米市の某河川だった。

ただこれは心から楽しめる採集ではない。何せ目的は特定外来生物ブラジルチドメグサの駆除だからだ。

昨年の秋頃、オオフサモとブラジルチドメグサが突然この川に現れた。とくにブラジルチドメグサは瞬く間に増殖し、数ヶ月の内に巨大な群落をあちこちに形成していった。
しかも冬にも枯れないため、春に在来植物が新芽を出す頃には水面のスペースを埋めてしまうのだ。

既に繁茂してしまった地域では駆除を続けているが根絶が困難で長い防除作業が続いている。だからこそ、早い段階で根絶しなければ手遅れになってしまう。
しかし、行政が重い腰を上げるのはいつになるか分からない。



このまま春を迎えるのは恐ろしい。ということで私らの力で何とかしよう。
特になんの取り柄もない私だが、背負うものも何にもないのでフットワークだけは軽い(笑)

幸いにも仲間には恵まれている。唐突な呼びかけにもかかわらず集まってくれる方々がいる。



作業中にツチガエルがでてきた。
越冬には浅い湿地が必要で、こちらの方では冬季の乾田化や麦作などが増えて大分見なくなった。
そして決まって、彼らが住めるような流れの緩やかなワンドにブラジルチドメグサが根を下ろし泥を溜めるので、陸地化が進んでしまっていた。

外来種≒悪ではない。
そんな短絡的な話をしているのではない。

ただ害があるから防除するしかないのだ。

街中を流れる清流。市民の近くにあり、多くの生き物が住む川。そこがブラジルチドメグサの巣窟になってしまったら、どうなるだろう?

数少ない誰でも遊べる水辺のこの川が失われるのは取り返しのつかない損失だ。

もちろん、生物環境も大きく変わる。水面を覆われては水中生態系は成り立たない。

もし、私が小学生の頃にそんな川だったら足繁く通うこともなかっただろう。そんな川にしてしまうのは、これからこの川で遊ぶだろう未来の生き物好きたちに申し訳が立たない。

気づいたのだから、やるしかないのだ。




とりあえず、繁茂していた群落は取り除いた。
しかしながら戦いはこれからだ。千切れた茎や地中に残る根から無限に再生してくる。

それを根気強く回数をかけて抜いていくしかないのだ。





この辺りの水域の群落はざっとこんな感じ。
5人で4時間ほどで30袋強。多分、あと200袋位で目に見えている群落は除去できる。

あとは地道に再生の芽をつんでいくしかないだろう。
行政やこの川で活動する様々な団体に働きかけつつも、仕事やバイト、学業の合間を縫って文字通り草の根の駆除活動をしていかねば。

池の水全部抜くのも良いけれど、是非とも川の草全部抜く手伝いも誰かして欲しい(笑)





さてはて、そんなことはどうでも良くはないのだけれど、それは一度置いておいて、ちゃんとしないことをモットーに生きてきたのに柄でもない活動からスタートしてしまった今年であります。

本当は昨年の反省と今年の野望を淡々とたれ流すつもりだったのですが、前書きがやたら長くなってしまった。

いや寧ろ、ここで終わって良いくらい。



さて、昨年は様々なことがあった。ベトナム行ったりモンゴル行ったりラオス行ったりベトナム行ったり……なんかベトナムばっかり行っていた1年だった気がする。

行った先々で知らない世界を覗くのが好きで、そんな非日常の中で常識の外側を探すのが好き。

結局なんだかんだ言っても好きなことをやってるに過ぎない。

知らない場所へ行って、自身の矮小な想像力を超てくる自然の素晴らしさを経験して、そんな非日常を日常として、好奇心を大切に生きている。

自分が惹かれる対象がそれだったというだけで、別に特別なことをしているわけではない。

誰しもが美味しいものを食べたいと思うように、ゆっくり寝たいと思うように、お洒落な服を買いたいと思うように、友達と楽しく飲みたいと思うように、私は好奇心を満たしたいと思うのだ。

だから私に素晴らしさを魅せてくれる自然がいつまでも傍にあって欲しいと願う。目の前にある有明海や柳川の水辺だけのことでなく、日本中の、世界中の、興味をそそる豊かな自然がいつまでもあって欲しいと願う。

ここに気高い理想なんてない。

ただ私がそう望むから、私は環境保全に取り組みたいと思えるのだ。

幸いなことに私が望む生命溢れる水辺というものは、豊富な生態系サービスを提供し、地域社会にとって良いものになってくれる。

難しいことではない。

訳の分からない珍しい生き物が住んでいた干潟には、アサリもタイラギも沢山住んでいた。昔の有明海がそうだったように。

こんな話は前に 有明見聞録 の中で記しているので詳しくはその記事を見て欲しい。

私が今宵ここに記したかった内容はそんなことではないのだ。

「私はどこに立っているのか?」

結局今までの人生で何かを成し遂げることも無く、自分がどこに向かって歩いているのかどころか、自分がどこに立っているのかすらよく分からないままにここまで来てしまった。

それでも、ここ数年の失敗と停滞は見直す機会を与えてくれた。

そして今は、私がどこに立っているのか、どこに行きたいのか、それがようやく見えるようになってきた。

延々と抽象的な話をしても意味が無い。ここからはそこに至る過程を記したい。







楽しむことは悪いことなのか?
自己矛盾を解決する鍵はここにあった。私は生き物を探すのが楽しくて、だから環境保全にも取り組みたいと思っている。

そこには自己犠牲精神に満ちた苦労の果ての美談なんてものは微塵も介在しない。

あくまでも利己的な動機に基づいている。

では、その利己的な感情は悪いものなのだろうか?

悪いってことはないだろう。事柄は違えど、大多数の人間は自分もしくは自分に親しい人達のことを考えるはずだ。

地球のどこかで環境破壊が行われている!と耳にしたところで、私は今から乗る原付のエンジン不調の方が気掛かりだったりするのだ。もちろん、万人を愛し、全ての事柄に同様に思いをはせられるならそれに越したことがないのだけれど、自分のことが優先されることというのは普通のことだと感じられる。

だから別に、誰が何を好きだろうと悪いことはないし、好きだからって必ず保全に協力するのが義務だということもない。

強いていえば、マナーさえ守れば自由であって良いのだと思う。マナーというのはポイ捨てしないみたいな社会的なマナーから、違法行為をしないという当たり前のことも含んでのマナーだ。

このマナーを守るという行為は、結果として自分を守ることにもなる。

釣りで例えるならば、ゴミのポイ捨てや違法漁法なんかやっていたら釣り禁止や立ち入り禁止にされかねない。マナー違反が自分の首を絞めることになる。
そしてそれは周りに迷惑をかける行為になる。その釣り場で真っ当に釣りをしてた人からしたらとばっちりでしかないわけで、事例によっては1人のマナー違反が界隈全体への迷惑になりかねない。

過度なマナーの強要は界隈を息苦しくしてしまうわけだが、最低限のマナーは守るべきだと考える。

ブラックバスはルアーで釣るのがマナーという話と、特定外来生物を密放流することとでは話が違う。
前者はある人からすれば餌釣りは邪道で好ましくない釣り方なのかもしれないけれど、他人からしたらそうではなかったりもする。しかし後者は、誰がどんな信念でやったところで明確な違法行為なのだ。

私の語彙力で上手く伝えられているか心配だが、好きなことは自由にすべきだが、違法行為や反社会的な行為もしていいといということではないという話だ。

例えばTwitterでも目に余る行為を繰り返す人物がいる。A氏は違法漁法をTwitterで指摘されツイートを消したが、後日捕まえた生物の写真は悪びれることなく投稿した。評価されたいのは分かるが、違法行為によって得られた成果を振りかざしたところで本人にも界隈にも良いことは無いだろう。むしろ、それが世間に露見した時にさらに採集を趣味とする界隈は肩身を狭めるのではないだろうか?
常日頃からフォロワーやイイネの数のことばかり口にする人物だったが、違法行為で得られる評価が果たして価値あるものなのだろうか。

楽しむことは悪いことではない。だからこそ、悪いことをして楽しんではならない。
幸いにも法律という線が人の行為に対する善悪を明確に引いている。末永く趣味を楽しむ為にも、自らの首を絞めるような行為はすべきではないのだと思う。





話がそれてしまった。いや、もともと本線がどこなのかよく分からなくなっているがここからは環境保全の在り方について考えたい。
昨年冬、北里大で勉強会を開いた。その中の内容はちゃんとした環境保全のお話なんかではなくて、ただ単に生き物が好きで、それを探して、自然を楽しむということをメインに話した。
好きなことをすることは別に難しく考える必要なんかなくて、少し視野を広げてみるだけでいくらでも方法はあるのだ。

そして面白い自然に気が付いたら、それはもう環境保全のスタートラインに立っている。

そう考えて、気付きを重視した内容にしてみた。

もちろん、わざわざ勉強の中で得るものだけではない。


楽しみの中で気付くことだってある。
必ずしも最初からお行儀の良いものである必要はない。

例えば柳川でパドルボードのイベントが出来ないかという試みが開かれた時、参加者からは自ずと気付きが生まれた。
実際に掘割の上を漕いでみて、生活排水が流れてたり、ゴミが浮いてたり、意外と魚が泳いでたり。
そんな光景を見て「私は自分のボートをここに浮かべたいと思えない。だから浮かべたいと思えるくらい良い環境にしたい!」という感想。掘割のそばにずっと住んでる人がそう言うのだ。 
視点を変えて遊んでみて、地元の問題に気がつく。
こちらから働きかけした訳でもないのに「どうにか排水を減らせないか」「地域で水落の時に泥を取り除く仕組みを作れない?」といった声があがった。

遊ぶ、楽しむという行為は、気付きの大切な過程だと実感した。


その中でやっぱり食べるというアプローチはアリだと思う。


ただただ環境問題や自然の面白さをとくのも無駄というわけでは決してないけれど、やはりそれだと皆が皆関心を持ってくれるわけではない。むしろそういう話題で積極的に食いついてくるのは少数派だと思う。

しかし、食べるというテーマは思いの外食い付きが良い。ただ生き物というだけよりも、食べるという行為が絡む方がより多くの人が目を向けてくれる。

意識の高い環境保全家からは批判も上がっていたけれど、私はそれで良いと思う。

「へぇ、それ食べられるんだ!」とか「意外と美味しい!」とか、そんな驚きは印象に残るわけで、少なくとも今までとは別の視点から自然を見ることが出来る。

それでいいじゃないか。

生き物がいなくなったと思われてる柳川の掘割にはまだ沢山生き物が住んでいてしかも食べたら意外にも美味しい、なんて気付きがあれば昨日までのただの水路が面白い水辺に変わるんだ。

入口は何でもいいし、動機だって何でもいい。



ちらっと告知。
1月20日、柳川の商店街でこんな試みもやってみます。






なにより注目してもらう。それがスタートだ。

ウナギ処柳川、しかしウナギが沢山いたのは昔の話。分断されたいまでは無数の水路内にはほとんどいない。
そこで昨年始めたウナギのバイオロギング調査。発信機を取りつけたウナギを放流して柳川観光の名物・川下りの船でデータを取って回る。

もちろん調査で得られるデータも重要だけれど、目立つ川下り舟で調査するのにも意味がある。
ウナギの生息地を戻すための調査を地元の学生や市民が取り組んでいること、それを知らせていくことも重要な目的のひとつだ。

まずはただ日常の中にあるだけの水路に目を向けてもらう。そこが始まりであり、そこが1番難しいところでもある。

その方法を無い頭を使って、野食だったりバイオロギングだったり、あの手この手で考えていくのだ。

そんなこんなで、思いついた夢物語をひとつかたりましょう。

諫早の農家と、太良の漁師と、水源地の森で植樹祭とか出来たら、分断され雁字搦めになっている現状を解いていく良い事例になると思うんですよね。
農家(里)と漁師(海)が山(森)で繋がる森里海連環へ。
東北の森は海の恋人だって植林から初めたことだし、ダム建設を中止にできた訳ですから。
九州だって、そこから漁師と農家が協力して諫早湾を取り戻したとか出来たら良いですね。対立していがみ合って、もう20年もそんな状態が続いてる。過去のものになりつつある。
それでも時代は変わっていくわけで、そろそろ若輩者の我々学生らが口出ししてもいいんじゃないですかね?と思うわけです。
開門賛成反対とか、政治的な話とかではなくて、水は皆が使うものですから。農家も漁師も水に支えられてる。
馬鹿な若者の頼みを聞いてやって、協力出来るところで一度、手を取り合ってみて。そしたらまだ色々手を尽くせるところが見えてくるんじゃないだろうか。
まぁそんなところだ。そんな夢を抱きつつ、あの海が蘇ることを切実に願います。




さてさて、話も長くなりすぎているのでそろそろ最後にしたい。

昨年末の忘年会。
3000円という破格の安さで買ってきたタカアシガニで最高の仲間と普通の鍋を作った。
様々なことがあったが、結果として良い仲間に囲まれ、新たな一年を迎えることが出来たらしい。

今年1年、精一杯足掻きながら共にそよ風程度であったとしても新しい風を起こしていきたい同志たち。
60℃程の沸騰しない程度に熱い気合と45°の角度にひん曲がったペン先で世界を描いていこう。

今までのどことも違う、ちゃんとしないやり方で。

夢見がちな、しかし地に足着いた、そんなどっちつかずなアンチテーゼを軽すぎるフットワークだけで示していくのぜ?







まぁそんなわけで、活動よ、止まるんじゃねぇぞ……とかね(笑)

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