大橋巨泉 7.12 | ジャズと密教 傑作選

ジャズと密教 傑作選

空海とサイババとチャーリー・パーカーの出てくるお話です

わたしにとってスピリチュアルなる単語がジャズ用語に他ならないのと同じく、誰がなんと言おうと大橋巨泉といえばジャズ・コメンテイターなのである。

「野球はヤクルト、司会は巨泉」という標語(←一部、文言を改ざんしております)があるくらい数多の番組を作っては喋りまくっていた大橋巨泉は、わたしにとって「もともとジャズ評論をやっていた人」であった。

だからこそ、あの尊大といわれた態度も気にならなかったし、トップ当選しておきながら半年で議員を辞めてしまっても悪口をわたしは言わなかった。

一緒に仕事をした人の中には「おれがおれが」という性格(だろうか。なにしろ会ったことないもので)を気に入らないという向きも多かったようだが、わたしから見れば親子みたいな年齢差だし、そんなことはなんとも思わない。

むしろその凡庸でない論評の調子に感服するところ大であった。その慧眼はジャズ評論においてまた大きく発揮された。

わたしがジャズ誌「スイング・ジャーナル」を読み始めた頃はすでに新譜レコードの論評執筆者の中に大橋巨泉の名はなかったが、主にラジオでその声を聴くことができた。TBSの夜9時台に20分程度だったが巨泉の名を冠したジャズ番組があった。

いま思ってみれば贅沢な話である。巨泉のMCでジャズの名盤を聴かせてもらう。指定されたスタイルで原稿を棒読みするパーソナリティばかりが目立つ今どきの番組群を見ればなおさらだ(いえ、別に小林克也さんのことを言っているわけではありません。てか、渡辺貞夫マイ・ディア・ライフのナレーターをやっていたこともある小林さんを悪く言うつもりなんかありませんが、巨泉の縦横無尽というか自分勝手過ぎる境地をさらに小林克也も目指すべきではなかろうか・・・余計なお世話・・・)。

クリフォード・ブラウンのジョアドゥ(Jorduですがこの日本語発音だったはず)や発掘されたマイルス・アット・プラザでのキャノンボールとコルトレーンのサックス・バトルについての思い入れたっぷりな解説などは今でもよく覚えている(って、なぜ覚えているかといえばカセットに録音して何度も聴いたからである。ははは)。

中村とうようは巨泉が議員を辞めたとき「ぼくはあのヤローがいいかげんな奴だと知っていたから別に驚かなかった」と言っている。しかし、そんなことを言いながらもジャズ評論の分野では当時、同じ土俵で活躍する巨泉に一目置いていた。

50年代末にジャズ界を席巻したファンキー・ジャズなる用語の定義については、関係者の中にもいろいろな見方があった。ゴスペル起源がどうとかいう油井正一の教科書的な分析に対し、もっと身体感覚的に「うねうねしたリズムに体を揺り動かさずにいられない」というような視点を巨泉は示し、それをとうようさんは「見事にファンキーの本質を言い当てている」と評価した(教材はソニー・ロリンズの54年版ドキシー)。

中村にしろ巨泉にしろ、言うことが普通の人と一味違う。独自の言説はしかし普遍的影響力を持った。

70年代初めにCBSソニーがビリー・ホリディの編集アルバムを出した。そこに油井正一や大和明と共に巨泉も解説文を寄せている。

1939年12月15日録音のザ・マン・アイ・ラヴをご存じだろうか。レスター・ヤングが間奏を受け持つジャズ・ファン周知の有名曲である。大橋巨泉によるその曲目解説を引用したい。

“「私の彼氏 The Man I Love 」  ボクが中学時代に愛聴したSP盤を思い出す。紅顔の少年(?)だったボクはただしびれていたものだが、今聞くとその秘密がよくわかる。この人が歌うと、男をはなすまいという気持ちが ― 例えばサビの「HIM]という言葉の歌い方 ― まだ見ぬうちから燃えているようで、他の人には絶対に出来ない表現になっている。そしてテナー・サックスの間奏。この歌ごころ、この余裕、このフレーズ、そしてこのモダニズム、レスターの最高のソロのひとつだと思う。”

これを読んで感激し、このテイクを何度も聴き、そしてテナー・サックスを手にし、練習を重ね、とうとうわたしはテナー奏者にな・・・れませんでした。とほほ。