ぼくはみみずくん その5 歪んだ愛の西洋世界 | ジャズと密教 傑作選

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空海とサイババとチャーリー・パーカーの出てくるお話です

わたしはこうして土を掘り進み、食い、排泄する。なにかの衝動がわたしも気づかぬうちに起こり、なんだか分からないまま子供を産むが、ただそれだけのことだ。

子を子とも思わず“おお、愛しい我が子よ”などという特殊な(余計な)想いは抱かない。子とか親とかいう概念を持たないからだ。

相手を包み、また寄り添う欲求は純粋なひとつの衝動に過ぎず、それを愛などと名付け、所有や独占の意味にすり替え、しまいには義務にまで捻じ曲げてしまうような人類の犯す愚は我々において起こり得ない。

(ちなみに日本にあっては古来より、現代において流通している意味合いを含んだ「愛」なる語はそもそもなかったと筆者は夢想している。愛という漢字は中国から伝わってきたが、さて果たして一般の生活人たちの間でそれはどのように定着しただろうか。「愛してます」なんて言ったのだろうか。

少なくとも画面に大写しされた男女の触れ合わんばかりの口腔から発する「愛しているよハニー」「ふん←鼻の鳴る音」みたいな囁き合い振る舞いに背景としてある西洋直輸入の感受性は我が市井の生活感覚とは相容れないものである。西洋かぶれは似合わないのでやめた方がいい。とサイタマケンジンは考えるのであった。いや、まじめな話、「愛」には西洋的個人主義のテイストが横溢している。わたしは好まない。もちろん、愛なき者のやっかみですけど)

そのような限定された線引きから生じる感情を持つのは人間の他はごく一部の猿だけである(その猿は修行の旅のうちに唯識の知見を獲得し、そうして件の冒険譚は書き上げられた)。

わたしは大地の律動に合わせて呼吸する。常に変化するリズムは自然の摂理が織りなす鳴動だ。そのダイナミズムに揺られてわたしの生命活動はそこに呼応し、時に寄り添い、また時に反発し突出するが、大いなる生命の全体性から離れることはない。大地はわたしを含み、わたしは大地を構成するひとり分の役割を担い続けている。