ママのイヤリングが揺れている。
 ママはアクセサリーを作るのが趣味で最近はネットで売って自分のお小遣いにもしているみたいだ。若い頃からアクセサリーが好きで、短大卒業後はブランドもののアクセサリーショップで店員もしていたらしい。ママは優しいし感情的に怒ることもめったにない。だけど、こと中学受験のことになると悲観的になることが多い。僕の偏差値が下がると本気でおろおろして時には涙も流す。5年生の時、塾のクラスが落ちてしまった時なんて夕食が作れないくらい落ち込んでいた。ママは僕を最難関校に入れたい。アクセサリーショップで働いていた時、最難関校に通っている息子を持つ親が客としてくることが多々あって、自慢げだけど上品に子供の話や学校の話をしていたらしい。お金にも時間にも生活にも余裕があってキラキラ輝いていたそうだ。その頃からママは自分の子供には有名校に通わせたいと思っていた。だから僕は小学1年生から大手進学塾に入塾して塾通いをしている。塾に通うことが生活の一部になっているから辛いとか苦しいとかはもはや感じない。勉強が習慣になっている。ただ、クラスが落ちたり、席順が後ろに下がることはなるべく避けたいんだ。ママが泣くから…。

 「開始!」
塾の先生が大声で叫んだ。一斉に用紙をめくる音が教室に響く。速さ、平面図形、割合…夏期講習で重要単元だと散々言われた問題が出題されている。これは割合で解かなければならない問題だ。でも割合が正直よくわからない。何がわからないのかもわからないから、塾の先生やパパに聞くこともできない。先生もパパもわからないことがわからない、なんて言うと絶対に怒るから。だからずっとわからないままなんだ。斜め前に座る加藤の答案が見えそうだ。僕はほとんど毎回カンニングする。全問するわけではない。どうしてもわからない問題だけだ。一度カンニングに成功して席順が上がったら、ママが大喜びしてから癖になっている。テストの結果が返ってくるとママはいつも悲壮な表情をするのに、カンニングに成功して席順が上がった時は寝るまでニコニコしていた。僕のすべきことはこれなんだって思ったんだ。塾の宿題をせず、答えを丸写ししている奴もいるけど、僕はそんなことはしない。僕の目的はママを笑顔にすることだ。だから努力はするけど努力ではどうしようもない部分をカンニングで補っているだけだ。何も悪いことはしていない。家族の中の僕の居場所を作るためなのだから。

 今日もうまくカンニングができた。これで席順が下がることはないだろう。安堵のため息をもらしていると
「酒井」
塾の先生が僕を呼んだ。嫌な予感がした。
「酒井、別室に来てくれるか?」
僕は返事もせず田村賢一先生、通称たむけんについていった。
「さあ、座って」
僕を促すとたむけんは前じゃなくて僕の横の席に座った。
「酒井、加藤の答案写しているな?」
僕は顔から火が出そうになった。何も言えなかった。
「いや、責めているんじゃない。せっかく頑張っているんだからもったいないと思ったんだ。」
たむけんは思いのほか優しい口調だ。授業の時の豪傑さはない。
「どうしたんだ?勉強、思い通りにいかないか?」
はい、と言いたかったが返事をするとカンニングを肯定してしまうような気がして黙ったまま下を向いた。
「k校、目ざしているんだよな。k校行きたいか?」
僕は咄嗟に首を振った。k校なんて無理なんだ。行かせたいのはママなんだ。
「受験、もう嫌か?」
でも、ここまで来て受験を放り出したくはない。1年生からずっと頑張ってきたんだ。
「塾、やめたいか?」
首を横に振りながらさっきから言葉を発しない自分を情けなく感じた。
「酒井は1年生からよく努力していた。学習習慣がついているし、粘り強く問題にも取り組む。だからもったいないんだよ」
褒められると泣きそうになった。いっそのこと叱られたかった。
「ほら、この大問3。こんなに情報がごちゃごちゃしているのに、酒井は必要な情報を取り出して図にしている。こんなことをできる人間は小学生では稀だ。ごちゃごちゃしたものからゴールにつながる糸口を掴み、整理して解答を導く。酒井にはこれができるんだ」
たむけんは大問3の僕の解答を指差しながら言った。
「俺は大人だからわかるけど、人生っていうのはごちゃごちゃしたものから答えを導き出すことの繰り返しなんだ。酒井は今その練習をしているんだよ。」
カンニングをしたのは大問5なのにたむけんは何を言っているんだろう。僕は思考が止まってしまった。
「それに酒井、大問1から順番に解いていなかったな。はじめに問題全体を眺めて優先順位を決めて大問2から3へ1から4へと進んでいった。この能力は大人になってからとても役立つ能力だ、優先順位を決める、時間通りに解いていく、なかなかできないことだぞ」
これ以上褒めるのをやめてほしくて僕は口火を切った。
「でも、カンニングしているから僕の偏差値はニセものだ。だからk校なんて無理なんです」
気がついたら自分からカンニングのことを吐露してしまっていた。
「そうか…」
たむけんは小さくため息をついた。
「カンニングなんてしなくても、酒井は力を持っている。俺が保証する。k校志望が辛いならクラスを落として志望校を考え直すのもひとつだ…」
「無理なんです。僕はママのアクセサリーだから…」
小さな声で呟いたはずなのに、たむけんと僕の心の深奥にアクセサリーという言葉が響いているような気がした。たむけんはそのエコーがなくなるのを待つように黙っていた。
「勉強は嫌ではありません。受験はやめたくない。ゴールが見えているんだ、塾だってやめたくない。だけど、僕は、僕は、どんなに頑張ったって加藤みたいにk校の合格判定は出ないんだ。でもママはママはk校にこだわっていて…僕がk校に行けなかったら僕はママの自慢のアクセサリーじゃなくなってしまう。僕はママから離されて宝石箱からも除外されて、ほったらかしにされちゃうんだ。僕の居場所がなくなってしまうんだ…」
話しながら涙が止まらなくなってしゃくり上げた。たむけんが渡してくれたハンカチで両目を押さえ涙を拭ってから顔を上げた。隣でこちらをまっすぐに見るたむけんがいた。たむけんの目が潤んでいた。先生は、僕が顔を上げるのを待っていてくれた。
「そうだよな。三者面談の時からなんとなく感じていたんだ。酒井が追い詰められているって。酒井、話してくれてありがとう。よくわかったよ。」
たむけんは鼻をすすりながら言った。
「俺からお母さんに話してもいいか?悪いようには絶対にしない。そして一旦クラスを落とそう。さっきも言ったように酒井はこれからの人生で役に立つ力を十分身につけている。だからこれ以上突っ走らなくてもいいし、k校を第一志望にしなくてもいい。一旦スピードを落とすだけだ。それでいいか?」
僕は何度も頷いた。やっと解放されると思った。たむけんは僕の手からハンカチを取ると自分の顔をゴシゴシ拭いて鼻までかんだ。
「先生、おっさんだなあ」
僕は自然に笑ってしまった。
「ミラーニューロンが発動したんだよ」
たむけんも天井を仰いでハハっと笑った。