二人の訃報 | へーそうなんだ

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中日新聞 中日春秋 2015.1.6

 この人の瞳に、沖縄の青い海とまぶしい空は、どう映っていたのだろう。おとといの朝刊に小さく載った訃報を読み返しながら、そんなことを考えた。大みそかの朝、那覇市内の病院で八十六歳で逝った宮城喜久子さんの訃報である。
 宮城さんは、沖縄の第一高等女学校と師範学校女子部の生徒で組織された「ひめゆり学徒隊」の一員だった。七十年前の春、野戦病院に動員された「ひめゆり」の少女たちは、手足をもがれ、絶叫する兵士らであふれた病院でも、御国のためにと愚痴も言わず働き続けた。
 動員された生徒は二百二十二人。うち百二十三人が戦死した。十六歳の宮城さんも学友らとともに沖縄本島南端の浜辺まで追い詰められた。死を目前に級友らが口にした言葉を、宮城さんは自著『ひめゆりの少女』に書き残している。
 「もう一度、お母さんの顔が見たい」「もう一度、弾の落ちて来ない空の下を、大手を振って歩きたい」。その浜辺で落命した少女は三つ編み姿のままで、白骨になっていたそうだ。
 宮城さんは戦後、教員となったが、海辺で遊ぶ教え子たちを見ると、浜辺で恐怖で震えていた学友たちの姿が思い出されてしかたなかったという。
 「もう一度」と言いつつ死んでいった友の声を、「ひめゆり」の語り部として伝え続けた宮城さんの目に、戦後七十年を迎える日本の姿は、どう見えていたろうか。

朝日新聞 天声人語 2015.1.6
http://www.asahi.com/sp/paper/column.html

 元日に発表された天皇、皇后両陛下の歌に、平和への思いがにじむ2首があった。天皇陛下は「来たる年が原子爆弾による被災より七十年経つを思ひて」と詞書(ことばがき)を置いて、〈爆心地の碑に白菊を供へたり忘れざらめや往(い)にし彼(か)の日を〉と詠まれた。
 皇后さまは〈我もまた近き齢(よはひ)にありしかば沁(し)みて悲しく対馬丸(つしままる)思ふ〉。対馬丸は、沖縄から本土へ向かった学童疎開船。米潜水艦に撃沈されて約1500人が犠牲になった。お二人は去年、被爆地と沖縄を訪ねて供花をされている。
 その被爆地と沖縄から、戦争の語り部二人の訃報(ふほう)である。長崎の片岡ツヨさんは93歳、沖縄の宮城喜久子さんは86歳。ともに、おとといの紙面で伝えられた。片岡さんは原爆に親族13人を奪われ、自分も全身に大やけどを負った。
 顔に残るケロイドに、人の視線が突き刺さるのがつらかったという。自殺さえ考えた絶望をのりこえて、体験を語ってきた。片や宮城さんは、看護要員として戦場に送られた「ひめゆり学徒隊」の生存者の一人だった。
 二人とも、忘れたくて幾度も砕き捨てようとした記憶であったろう。かつて取材した宮城さんは、語り継ぐことを「次世代への責任です」と話していた。片岡さんがたどりついたのは、「自分を平和の道具として使ってほしい」という境地だったそうだ。
 戦後70年、歳月をこえて聞こえる戦争体験者の直(じか)の声はますます細くなる。「忘れざらめや往にし彼の日を」。両陛下の思いを、戦後世代こそ分かち持ちたい。



日本経済新聞 春秋 2015.1.6

 昨年の暮れ、2人の語り部が亡くなった。1人は長崎で被爆した片岡ツヨさん。原爆がもたらす被害の悲惨さを語り続けた。もう1人は女学校当時、沖縄戦にひめゆり学徒隊として動員された宮城喜久子さん。戦後は小学校の教壇に立ちながら、戦争体験を伝えてきた。
 語り部の人たちの高齢化を止めることはできない。そうわかってはいても、戦後70年を迎えた年の初め、相次いで接した訃報に切迫感のようなものをおぼえる。宮城さんが設立に力を尽くした糸満市のひめゆり平和祈念資料館では、元ひめゆりの学徒が修学旅行生に直接語ってきた講話を、今年3月までで終了するという。
 苦難の道を歩んだ先人たちの言葉は、書物や映像とはまた違った迫力で、受けとる側の胸に響く。もちろんそれは、70年前の戦争に限った話ではない。水俣病やハンセン病での過ちを繰り返さないためにも、風水害や地震の被害を抑え込むためにも。「聞く」ではなく「聴く」べき話が、まだまだたくさんあるに違いない。
 思えば日常を生きる私たちにだって、次の世代に語り伝えられる話があるはずだ。ちょっとだけ気持ちを高めて、会社の後輩に自らの奮闘記や失敗談を、家で子どもに若いころの夢や武勇伝を語ってみてはどうだろうか。携帯電話やメールが当たり前の世の中だからこそ、顔を見ながら語り合い、耳を傾け合っていきたい。