鏡の絵画 | 藤田新 

鏡の絵画

 
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ゲルハルト・リヒター《8枚のグレイ》2001

エナメル塗料を施したガラス、鋼鉄製部品
H320×W200×D30cm(8点組)

金沢21世紀美術館蔵
©Gerhard RICHTER 撮影:木奥惠三
 
 
 
 
金沢21世紀美術館へは行ったことがありますが、この作品は殆ど記憶にありません(笑)



因みにタレルの部屋が一番印象深く、ついでに言うと、水の底に人が見える作品があって、昔、私のプールのような作品はこの影響、と言われたりしましたが美術館が出来る前から作っているシリーズでした。








ブルー・プラネット・スカイ            ジェームズ・タレル
 
 




リヒターの作品は「エナメル塗料を施したガラス」で作ってあるようですが画像を見ると、鏡というより、よく見ると周囲を写しこんでいる、というようなものです。







これは多分、ロスコの作品への対応です。
 

ロスコ・チャペル  (ヒューストン)



スピリチャルでアートな日々、時々読書 NY編」 から
 
 
 
ロスコの作品は佐倉の川村美術館にもまとまってありますが、チャペルと言っているように画面の向こう側に、言葉にならない神的な何かを感じさせてくれます。



リヒターの作品は、ロスコの作品のように画面を見ると、何かを感じるのではなく自分が写っているという「オチ」が待っています。

ロスコの作品を見たことがあれば、「神的な何か」は無くなって、殺したのは自分、と感じられるかも知れません。
 
 


それは、画面から何かを感じてしまう構造、それ自体を批判しているように見えます。



ただ、タレルの作品が、ネイティブアメリカンが作った空間(キバ)から発想されていて、全く違う可能性を感じさせてくれるのに比べ、リヒターの作品はロスコの劣化コピーのようにも見え、見ることへの批判があるとしても、そこから何かが展開されることはないそれだけのもののように感じられます。



Kiva





タレルの作品は、言葉で説明出来ない「気配」のようなものへ戻っていくように見えます。







 
 
 
 
 
 
 
 
 






リヒターの作品の解説はと探していると、やはり金沢21世紀美術館にこういうのがありました。



コレクション展「ソンエリュミエール ‒ 物質・移動・時間」





★展覧会について

光には闇があり、音には無音がある。それぞれは対概念ではなく、ひとつの事がもつ性質である。フランス語で「ソン(son)」は音、「リュミエール(lumière)」は光を意味する。「ソンエリュミエール」は、1952年にフ ランスで最初に開催されたイヴェントに由来し、以後、照明と音響効果を用いて史跡や有名建築を語る豪華なスペクタクルショーのことを指すようになった。太陽が沈んだ闇夜に人工光が輝き、音楽が流れ、名所の謂れが語られる光景は煌びやかで幻想的である。同時にその効果は表面的で場の固有性は光と音の華やかさに取って代わられ画一化されてしまう。過剰な情報が氾濫し、莫大なエネルギーが消費される現在、私たちは機械計測的に刻まれる時間に束縛されて日々の生活を送っている。支配的制度としての時間から解放された時、私たちの知覚は変容し、見慣れた現象が新たなかたちをとって姿を現す。光の流れ、音の移動、月の満ち欠け、鉱物に流れる時間—有機的な時空間の中では、流れる時の方向は多様で、個々の経験は計り知れない多義性を帯びた旅となる。 本展覧会では、現代の美術家をそんな旅人と捉え、特に物質、移動、時間をキーワードに世界を見つめ直す。 粟津潔、秋山陽、ヤン・ファーブル、ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス、木村太陽、岸本清子、草間彌生、ゴードン・マッタ=クラーク、カールステン・ニコライ、ゲルハルト・リヒター、サイトウ・マコト、田 嶋悦子、マグナス・ヴァリン、アンディ・ウォーホル——彼らは物質の性質と力を習得することによって、自己、イメージ、行為といった非物質的な存在に、物理的なかたちを与える。あるいはまた、物質に依ることで立ち現れる造形表現は、エネルギーの運動態として私たちの眼前にあらわれ、未知なる体験をもたらすとも言える。 ここに切り拓かれた思惟の宇宙を遊泳する旅はつかのまではかなくとも、またとない瞬間として確実に鑑賞者ひとりひとりに記憶されることだろう。

 
 
 
 
 


現代美術の展覧会ではよくこういう文章に出会います(笑)



「過剰な情報が氾濫し、莫大なエネルギーが消費される現在、私たちは機械計測的に刻まれる時間に束縛されて日々の生活を送っている。」



(昔はそんなに良かったのでしょうか・・・)







この日本語の文章を書いた人の背景は知りませんが、文章の表面は哲学的というか社会批評的ですが、実は、その底にある否定的なイメージの本質は 「宗教性」 ではないかと最近感じます。








様々な問題が世界の終わりを感じさせるのではなく、黙示録のような、終わっていくはずの世界というアイデアが始めにあって、そこに問題を当てはめているように見えます。



終わりを恐れるような、でも待ち望んでいるようにも見えます。

 

ザラスシュトラ が言った、「善と悪の闘争の場としての世界」は、どこかの地点で敗北も想定せざるを得ません。




でもそれは、世界そのものではありません。



 




 
 
 
「終わっていくはずの世界」というイメージは、こうして作品やその解説を通して世界の「空気」を作っています。