うつ病など 心の元気がなくなったのをきっかけに心の勉強をすると
「ねば」はよくない
という話に出会う。
「やらねば」とか
「やらなきゃ」とか
「しなければならない」とかね。
そういう言葉を使って自分の心を窮屈にすると、元気がなくなっていく。
私もかつてそれを大いに味わった。
別に自分を縛って窮屈にしたかったわけじゃない。
大事に思えることがあって、それのために自分を奮い立たせようとしただけだったんだ。
でも、そうやって奮い立たせようと「やらねば!」「やらなきゃ!」と思えば思うほど、体が動かなくなって なんにもできなくなっていったのでした。
心の勉強をしたり 心を観察して「これって逆効果だな」と気づいたりしながら、「ねば」「しなきゃ」と思うクセを 何年もかけて改めたよ。
私の場合は、自分が「ねば」「しなきゃ」と思ったことに気づいたら、いったん「しなくてもいい」と思い直して、
そして気持ちがちょっと落ち着いてから 本当にやるかやらないか もう一度考えてみたりね。
しかし。
どうも これとは違う「ねば」があるみたいだ
というのも、ここ数年だんだんと分かってきた。
これはどう言ったらいいんだ。
自分を奮い立たせようとするのとは全然違う。
「そうだ 京都、行こう」
の感じに似ているかもしれない。
たとえば、私は「あの山に登る」というのを前日に思いつくことがたまにあるのだけど、そのときの感じ。
ダッシュでその山について調べものをして 交通手段を調べて 計画書を作って 荷物を用意して 寝て起きて 風呂に入って行く。
やりたかったけどできていなかった掃除が その日はやけにできる気分になっていることに気づいて、「今日、今やらねば」といきなりその日がスーパー掃除デーになることも。
こういうときも「ねば」「やらなきゃ」という言葉にしたくなる。
それを思いついたら即座に「ねば」「やらなきゃ」というか「やる」になっている。
でも、このときの「ねば」「やらなきゃ」には、元気がなくなるような重たいリキみや気負いがない。
「決めたらそうなる!」という感じでもない。
「決める」「覚悟する」「受け入れる」みたいなワンアクションを挟まない。
ひらめいた瞬間、自分がそれをするのがもう決まっている。
ひらめいた瞬間、「それをやっている自分」になっている。
いつか未来にやることじゃなくて 今の自分の現在進行形の「ing」がついたモードになっている。
めんどくさくてヤダなと感じる気持ち(たぶんエゴ)もなくはないのに、ひらめいたその瞬間に「めんどくさく感じながらでもいいからやる、やっている」の自分になっている。
がんばってエゴを抑え込んでいる感じじゃない。
私が自分の気持ちや行動をあれこれコントロールしてそうなっている、そうしようとしている感じじゃない。
そのときの
「あ、行かなくちゃ」
「あ、やらなくちゃ」
の感じ。
この感じで神社に行きたくなることを「◯◯神社の神さまに呼ばれた」のように言うのかもしれない。
こういう感じのことが神さまごとということなのかもしれない と思うようになったよ。
こういう「ねば」「しなきゃ」はそう悪いもんじゃない ということが、とてもよく分かる。
「ねば」「しなきゃ」という その言葉を使ったからダメ ということでもない
そういうケースもあるんだな
というのが、だんだん分かってきた。