ひろしさんは車椅子から杖をもち、マイクまでの長い3メートルの距離を自力で歩いた。
2018年12月ひろしさんは足首のギプスをはずし、普通の靴で歩く姿をみんなに見せてくれた。
めぐのお母さん(もと歌手)も来てくれた。
なんとAKIRAライブのある23日の朝8;30に孫が生まれた。
2021年5月3日、高松市で初めてのめぐ&ひろしオペラがコロナ禍でおこなわれる。
2023年9月18日、高松市で2回目のめぐ&ひろしオペラが満員の観客でおこなわれる。
それに感動した中園慶子がその場で今回の主催を決意する。
そしてついに今日、高松以外で初めてのめぐ&ひろしオペラが滋賀でおこなわれるのだ。
スタッフを入れると100人近い人々が全国からかけつけてくれた。
2024年9月29日(日)滋賀県大津市「B B Dylan」にて
めぐ&ひろしセルフストーリーオペラ「あなたは大切な人です」
原作、朗読:香西めぐみ
脚本、歌:AKIRA
スリットドラム、歌:香西弘
1、 ウレシパモシリ
第1章 緊急入院
2、あなたは大切な人です
第2章 生い立ち〜結婚
3、一隅を照らす光
第3章 出産、開業、乳がん
4、この星に生まれた理由(わけ)
第4章 家族
5、家族
第5章 支えてくれた人々
6、ハイボクノウタ
第6章 回復
7、勇者の石
第7章 退院、殺意、虐待、安定剤
8、名もなき命
第8章 現在回復中
9、PUZZLE
第9章 さまざまな後遺症
10、魂の声を聞け
第10章 めぐのあいさつ
11、ふるさと(スリットドラム;ひろし)
12、えん
13、ありがとう
★ナレーション(中園慶子)
想像してみてください。あなたの大切な人に人生最大の危機が襲いかかったら。
あなたが逃げ出してもしかたないくらい大きな困難です。
夫ひろしの危機に妻めぐみは立ち向かうことを選びました。
これは名もなき夫婦が必死で困難を乗り越えてきた実話です。
そして明日起こるあなたの物語かもしれません。
ひろしとめぐみの壮絶な生き様は、あなたがこれから乗り越える苦難に希望と勇気を与えてくれることでしょう。
よけいなお世話ですが、ティッシュ、ハンカチ、バスタオル、足元にバケツなどをご用意くださると便利です。
うふふ、これが冗談でないことをあなたは知るでしょう。
めぐみ&ひろしオペラはじまり、はじまり〜
1、ウレシパモシリ
第一章 緊急入院
「弘さんが倒れた、すぐ東京にきてください!」
2014 年 4 月 23 日午後、私たち夫婦は楽園から追放されました。
夢なら早くさめてくれ。たとえ夢でも行動しなくちゃ。
無我夢中で高松空港に着いたとき、主人が運ばれた虎の門病院の医師から電話が鳴ります。
「奥さまですか? 今からご主人の緊急オペにはいります。本来なら頭の血管造影をおこないますが、出血が多すぎるので奥さまの来院まで待てません。 今すぐ手術の同意許可をお願いします!」
医師の緊迫した声に、ただごとではない事態が起こっていることがわかりました。
飛行機の中でもお茶を受けとる手が震えだします。
「あんた、私を残して死んでしまうような馬鹿じゃないよね。死ぬな、死ぬな、生きろ、生きろ!」と心の中で叫びつづけました。
羽田空港から病院へむかうとき、オバマ大統領の来日で東京タワーは星条旗カラーになり、道路にはおびただしい警官が立っていました。
私は虎の門病院の看板を見た瞬間、不謹慎にも吹き出してしまいます。
「バカがつくほどの阪神タイガースフアンがめでたく虎の門をくぐりやがったな。治ったときのネタづくりや」むりやり思いこむようにしました。
待っていた友人に腕を引っぱられ、救急入口からダッシュすると、手術中のサインが目に飛びこんできます。
私は友人の胸ぐらをつかまんばかりに事情を聞きだしました。
「全国から治療者が集まる会議で香西さんが発言し、椅子から崩れ落ちたんです。動かないでと押さえても、はなせと暴れたので、動くなって頬を一発殴ったんです。ごめんってあやまると、香西さんはごめんはいらんといって意識を失いました」
「手術が終わりました!」
ICU へ飛び込むと、見たこともない主人が目の前にいました。
頭を包帯でぐるぐる巻かれ、顔はむくみ、目の上が腫れ、さまざまな管につながれ、無機質な機械音に囲まれて横たわっています。
「麻酔がきいているうちに、説明させていただきます」
ICU の一角にあるテーブルに通されました。
若い先生が脳のCTを見せながら説明をはじめます。
「ご主人が運ばれてきたとき、瞳孔が開いていました。それは生命の危機を意味します。
脳出血の場合、30CCの出血でも手術になることがありますが、ご主人の出血はなんと160CCもありました。大量出血で脳が圧迫され、あと5 分おそければ助からなかったでしょう。
命はとりとめたものの、いつ意識がもどるか、どこまで回復するか? 正直今の段階ではなにももうしあげられません」
息子と娘が真っ青な顔でドアから飛びこんできました。
目の前で死人のようによこたわるお父さんを必死で理解しようと、目を見開いたまま凍りついています。
私は医師の説明をくりかえしながら、くやしさに奥歯を噛みしめていました。
私たちが何年もかかって作り上げてきた家族という積み木を、神様はこうもあっさり蹴り壊すのか!?
やれんもんなら、やってみいい。私たちがまた一から積み上げてみせる。
看護士がやってきて、主人のスーツと書類のいっぱいつまった仕事のカバン、財布や携帯の入っているバックをわたされます。
ほんとにたった1泊2日の出張だったのです。
主人は昨日高松の自宅から「ほんなら行ってくるわ」と、いつもと変わらない姿ででかけました。今朝も「今から電車で会議にいくんや。夕方の飛行機で帰ってからおまえのご飯が食べたい」って電話がきたのに。
結婚してから何万回もかわしたあたりまえな会話です。
ああ、これが最後だとわかっていたなら。
第2章 生い立ち〜結婚
目の前の変わり果てた主人と私の知ってる主人は、本当に同一人物なのだろうか?
それをひとつひとつ確かめるかのように、さまざまな思い出が襲いかかってきます。
この男はたしか、香西弘。1959年生まれの54歳だったな。
「弘法大師の日21 日」に生まれたから、一文字いただき「弘」と命名したという。
国税局のレントゲン技師であるお父さんと、民謡の先生のお母さんに生まれたひとりっ子だったね。
私も主人より2歳年上の一人っ子で、難産の末帝王切開で生まれました。
父さんは長距離トラックの運転手で、母さんは主婦をしながらいろんな仕事もしていました。
私は18 歳で念願の保育士になり、20歳で主人と出会います。
繁華街へ友だちの誕生会にいったとき、4人のあんちゃんに囲まれました。
「ねえ、おれらと飲みにいこ~よ」
「私、待ち合わせしてるの」
「ウソつけ、いっしょにいこ~」
私が「しつこい!」と叫んだとき、同じ年齢くらいの人が走り寄ってきます。
「遅くなってごめん、待たせた!」
えっあんた誰? こんな人知らない!
彼は相手にわからないように、ウインクします。
「なんや、ほんとにツレがおったんか」と、4 人はそそくさと去っていきました。
その後偶然にも彼のグループと私たちのグループはディスコでとなりあわせになり、18歳の主人と20歳の私は意気投合します。
なんどか「つきあってほしい」といわれましたが、「いやだよ! 私はひとりっ子なんで嫁にいったら田窪家の姓が途切れるから、ひとりっ子とはつきあわないことにしてるの」
さらにいわせてもらえば、ぜんぜんタイプじゃないし、2つ下。ありえない、ありえない!
彼は4月から東京の専門学校にいくからそのままバイバイと思っていたら、ポストの中になんかはいってる。リボンときれいな包装紙に包まれた金の指輪ではありませんか!
「バイトの給料がはいったのでプレゼントします」って、おい、絶対こんな指輪せんよ!
ときどき家に電話がきましたが、母に「つながないで」といっていたので、もう彼を思い出すことさえなくなりました。
それから1年がたち、商店街を自転車を走っていると、角からあの顔があらわれます!
「わっ、帰ったきとん?」
でも興味ないから、「ひさしぶり、またね~」でピューっと走り去りました。
さらに1週間後、車でフェリー通りの信号に止まったとき、またもや彼と遭遇してしまいます。
「うわっ、また会ったね。今日電話してかまん?」
「うん、いいよ」とおざなりに答えて、はいさようなら〜。
その夜に電話がかかってきましたが、不覚にも友だち話で盛りあがり、毎日定期連絡のようになってしまいました。
「おれ東京いって、彼女と別れてくるわ」
いやいや、べつに別れなくても。私好きな人いるし、あんたは恋愛対象外だからと、はっきり断ります。
なにをいってもめげない彼は、とうとう東京の彼女に別れを告げてきたのです。
20歳のくせにしっかりしていて、ひとりっ子同士の結婚にちゅうちょする私に、 「姓は変わるけど両親を大事にする。両親がいないとおまえは生まれてないからな」
年下は嫌だという私に、 「年はどうがんばっても変わらんが、おれがおまえを引っぱってく!」
顔がタイプじゃないという私に、 「顔はどうしようもないけん、心でカバーさせてくれ」
とにかくなにをどういっても、私を納得させる言葉を返してくる。私の心配を安心させてくれる、やさしさをもっていました。
私は「ありえない、ありえない」をくりかえしながら、つきあいはじめて3か月ほどで結婚を決めていました。
いいのか、いいのか私!?
結婚式が近づくにつれ、私はマリッジブルーに染まっていきます。
本当にこの人と結婚していいのか? 本当に好きなのか? 我が家の姓が途絶えていいのか? ただ家を出るための結婚じゃないのか?
結婚式の3週間前に私は母に告げます。
「電話もでない、本人がきても会いたくない!」
何度も電話がかかってきましたが、わがままな言葉をいいはなちます。
「今さらやめると両親に迷惑をかけるから、結婚式にはいくわよ。だけどそれまではあんたの顔も見たくない!」
彼の「わかった」とひと言を聞いて、私はガチャンと受話器を叩きつけます。
じっさい次に会ったのは、結婚式の当日でした。
結婚式にはきれいな衣装を着れるし、みんなが笑顔で祝ってくれる。 私は他人のイベントにでも参加するように自分の結婚式を楽しむことにしました。
そのまま新婚旅行で沖縄にいき、公園のブランコに揺られながら彼がつぶやきます。
「もしかしたら今のおまえの心におれはまったくいないかもしれない。でもおれは努力して絶対におまえの心の中のおれを100%にして見せるから」
あんなひどい仕打ちまでされて、最悪な私を愛しつづけるっているなんて。馬鹿だよ、馬鹿だよ、あんた本物の馬鹿だよ。
私は涙声に気づかれないよう「うん」とうなずきました。
3、一隅を照らす光
第3章 出産、開業、乳がん、
彼が倒れるまでの34 年間、彼は私の夫であり、親友であり、同志であり、良き相談相手であり、誰よりも良き理解者でした。ひとりっ子のさびしさも、幼いころから我慢してきた感情もすべて埋めてくれました。
私がいい子でいなくてもいい場所、自分らしさを認めてくれる世界で唯一の居場所でした。
私が妊娠したときも忙しい営業の合間に何度もかけつけてくれましたが、とうとう切迫流産してしまいます。
「おまえの責任じゃない。おれたちに準備ができてなかっただけや。神様から認めてもらえるよう、がんばろうな」と彼が抱きしめてくれます。
2度目の妊娠初期でも重い風疹にかかり、私はまたもや流産してしまいます。
命を与えるかどうかは神様の決めることと思いながら、泣いても、泣いても、涙が止まりませんでした。
彼は妊娠を知ったとき大喜びしていたのに、流産を知ったときは必死で私をいたわってくれます。
結婚して4年半後3 回目の妊娠でついに長男を授かります。
「ほんまか、ほんまか、めぐちゃんありがとな、おれを父さんにしてくれて!」
彼はうれし泣きしながら、私に何度も何度も頭をさげていました。
ああ、この人の子供を産んであげることができて本当によかったといっしょに泣きました。
その4 年後、長女を出産します。
目に入れても痛くない待望の娘です。人の愛情を計る機械があれば、この人はメーターを振り切ってしまうでしょう。
このころの彼は医療機器メーカーのセールスマンで、人当たりの与さとあたたかい人間性で、 会社でもトップセールスマンでした。
しかし西洋医学の矛盾や自己免疫で人は自分が治す力をもっているという気持ちから、会社が休みの日はカイロプラクティックの勉強をしています。
長男の小学校入学にあわせて、将来自宅で開業できるような家を探そうと、今の家を見つけました。
引っ越し荷物を片づけていたとき、私がなにげなくいいます。
「ねえ、この部屋はいつか使うの?」
「まあ、ゆくゆく開業したらな」
「ねえ、ゆくゆくって永遠にこないよ。辞表書くなら今日とちがうん?」
自分の口から飛びだした言葉に私も驚きましが、主人は翌朝本当に辞表をだしてしまいました。(笑)
28 歳のトップセールスマンの無謀な行動に会社はパニックです。
「人事部の人がきてから、本社の部長がきてから、〇〇支店を任せるとか、給料に役職手当をつけるから」あの手この手で引き留めようとしますが、私は毎日主人にこういって送り出しました。
「あんたが決めたことや。目に前にどんなエサぶらさげられても負けんなよ」
家のローンは頭金を払ったばかり、車は買ったばかり、カイロプラクティックの勉強にお金を入れたばかり。毎日火の車です。
ピンポーン。玄関の呼び鈴が鳴ると、長男に「お母さん今てんぷらしてるから、
何度子供をだしにつかったかわかりません。ただお金がなくても悲壮感なかったなあ。(笑)じっさい3年後に主人は整体で家族4人を養えるようになっていました。
私は33 歳で子宮頚がんを宣告されました。
「もうあんたの子供は産めなくなる」と、泣く泣く全摘手術を受けました。
のちに全摘以外にも方法があったことを知り、主人はくやしさをかみしめながらも「おれ、守ってやれんかった」とくやし泣きしていました。
泣いても恨んでも二度ともとの体にはもどれない。見ぬ子を思って泣くよりも、私をお母さんにしてくれた2 人の子供たちに感謝しようと、気持ちを吹っ切ります。
42歳の春、「あら、私の胸でも走ると揺れるのね、うふふ」 とさわってみたらけっこう大きいしこりがあります!
「私、乳がんになっちゃったみたい。予約している患者さん迷惑をかけるからついてこないでね」と説得しましたが、彼はなにを差し置いても私を優先します。
一週間後の診断は、乳がんステージ3。その大きさとしこりの位置で乳房全摘と告げられます。
手術を終えて消えた片方の胸を見たとき、女としての人格まで失ったと思いました。
退院しても腕を上げれば激痛が走り、抗がん剤とホルモン療法も受けましたが、なによりつらいのは、女でなくなったことです。
そんな私を慰めようと、主人は仕事が終わった夜、 「海に行くか?」と連れ出してくれました。
海辺の堤防に座り、ただ波の音を聴きながら背中をさすってくれます。
「離婚してください! 子宮頚がんで、子宮全摘、おなかに大きな傷もある。今度は片側乳房切除。私は女じゃなくなったの。素敵な女性と結婚して、これからの人生を幸せに生きてください!」
深い沈黙を波が洗います。
「結婚するまえも、結婚してからも、そして今も…おれにとっておまえは何も変わっていない。だからこちらからお願いする。そんなつらいこといわんでくれ」
駐車場の灯りに彼の頬が濡れているのがわかりました。
4、この星に生まれた理由(わけ)
第4章 家族
「おれなんか死んだほうがましだ!」と思春期の息子が叫んだので、私はぶちキレました。
私は息子のまえで仁王立ちになり、トレーナー、Tシャツ、ブラジャーを放り投げ、上半身素っ裸になります。
息子は何十年ぶりに見た母親のヌードに凍りついています。
「死ぬ、死ぬと気安くいうな! あんたら家族と生きていたいから、こんな体になっても生きてる。こんりんざい見せないから、おまえが吸っていたおっぱいを見ろ! これが家族と暮らすための命の代償や!」
息子は片方失った乳房に目を見開いてふるえています。
主人は無言で、服をかけてくれました。
こんな暑苦しい家族に生まれた子供たちもさぞたいへんだったでしょう。
次はお父さんの番です。
「お母さんになんて言葉吐くんや!」温厚な主人が息子を怒鳴ります。
主人は子煩悩で、子供の面倒もよく見てくれました。何よりも脱サラの理由が家族で夕食を食べるためですから。これほど家族を大切にする人を見たことがありません。
長男は小学生から少林寺拳法をはじめ、長女と私も通うようになります。
私と長男と長女は初段ですが、その上に君臨する主人は4段です。
その長男が20歳の頃、初めて父に挑みかかったのです。
二人は大声で怒鳴りあい、取っ組み合いがはじまりました。あまりにもすさまじい光景に娘が泣きだします。
私はドンという音とともに倒れたテレビを心配していました。(笑)
「おれ、この家を出ていく!」階段をかけおりる息子の背中に主人がムササビのごとく飛びかかります。息子は振り払おうともがきますが、 主人は全身全霊で息子を抱きしめます。
「おまえもいろいろあるんやろ! 吐きだせ、家族には吐きだせ。しんどいこともこともつらいことも吐きだせ、おれが聞いてやる。
それでええんや、兄ちゃんもがんばっとんや! みんなでわっかてやろうな、家族やけん!」
息子の力がゆるんでいくのがわかりました。
「おれ…頭冷やしてくるわ」と出ていき、次の朝「おかん、昨日はごめん」とあやまりました。
娘が結婚するときにも、主人は心から祝福しました。
父と娘はゆっくりバージンロードを歩いていきます。 いよいよ真ん中で新郎とバトンタッチする瞬間、主人が新郎に耳打ちしました。
一瞬、新郎と新婦の顔が固まり、くしゃくしゃにゆがんでいきます。娘なんかもう泣き崩れそうです。
参加者全員の視線が集まり、何が起こったのかのかとざわめいています。
私のとなりにもどってきた主人にヒソヒソ声でたずねます。
「あんた一世一代の大事な場面で、またよけいなこといったんちゃう」
主人は頭をかきながら苦笑いしています。
「ああ、おれの宝物やけん、大事にしてやってくれってな」
5、家族
第5章 回復、支えてくれた人々
楽しい回想から現実にもどると、あいかわらず管につながれ、酸素マスクをつけた主人がいました。
過去に逃げてもなにもはじまらない、未来を見つめていこうと決心します。
術後 3日目に「なんとか命の危機は脱しました」という医師の言葉を聞き、帰る息子に私はいいました。
「お父さんに、帰るからといってみて」
意識不明の主人の手を握りながら息子が声をかけます。
「おとん、おれ仕事があるけん帰るね。頑張れよ!」
その瞬間、息子が飛びあがるようにふりむきました。
「動いた!」
「そんな馬鹿な、もう一度やってみて」
息子が大声で同じ言葉を伝えます。ゆっくり5ミリほど握り返す指先が見えました。
意識はないが主人はそこにいるとわかった瞬間、今まででなかった涙が止めどなくあふれてきました。
意識がない人が多い ICU では、ほとんど家族の姿を見かけません。
動かないと意識がないってみんなあきらめてしまうのです。
植物状態の人でも、その内面には意識も考えも意思もあるんです。
意識があるのに、それを伝える手段がないだけがなんです。
見捨てられてしまった人の深い深い孤独にゾッとしました。自分には話しかけられない誰かの声を聴き、痛いも寒いもきついも何の意思も伝えることができない。
作家山元加津子さんが植物状態になったもと同僚のためにはじめた『白雪姫プロジェクト』というのを幸運にも私は知っていました。
『白雪姫プロジェクト』とは、病気や事故で意識がなく、回復の見こみないと思われてきた植物状態の人も、意識をとりもどし、思いを伝えることができるようになるという試みです。まさかそれが自分たちのためになるとは。
「私がこの白雪おやじを目覚めさせる。東京に残り、主人に寄り添う!」と決断します。
都心の病院近くに月20万円もするマンションを借り、保育士もやめ、整体の3 か月先まで予約のはいっていた患者さんに連絡し、玄関には「主人が急に倒れたため、入院中です。来ていただいたのにごめんなさい」と、張り紙をたのみました。
私はなんの反応がなくても根気よく話しかけます。
「ねえねえ、聞こえたら指で1して…あっ1本指がのびた!」
主人は目を閉じたまままったく動きませんが、指で会話ができるようになりました。
ゆっくりと2も3もできるようになり、意識があることが伝わります。
主人の手の甲をつまむと、きゃっ、痛みで少し動いた!
ある日友だちが主人の手を見て「どしたのここ!?」と改めて見ると、青あざになってます! ごめん、やりすぎました。(笑)
気管切開や胃ろうもし、入院後半は少し目も開けることもありましたし、か細いうめき声を発することもできました。
私は何を血迷ったのか、携帯のカメラを取り出していました。
もう一人の私が話しかけてきます。
「えっあんた、この悲惨な姿を撮るの!?」
うぐぐ、心の葛藤にシャッターが押せません。
「でも生き返った時のネタに写真を撮れるのは、私しかいない!」
パシャ! 1枚撮ると開き直り、高松へ転院するまでの60日間、毎日主人の写真を撮り続けました。
見舞いにきてくれた当時 2 歳と 3 歳だった孫、香川の友人、同級生、友人、知人、親戚が主人を見るなり絶句して泣き崩れましたが、「主人の力を信じて、記念写真撮っとこ」というと、どう考えても悲惨な患者のまえで笑顔にピースサインをしてくれました。
カンボジアボランティアの仲間たちが、千羽鶴を送ろうと呼びかけると、2600 羽もの鶴が届き、ディズニー好きの私にチケットが手わたされます。
えっどうしたのって?…もちろん行きました!(笑)
私の名前はめぐみですが、恵まれないものを数えるより、恵まれたものに感謝をするようにしています。
思えば、ありえない幸運の連続です。主人は国の重要人物が集まる衆議院会館で倒れ、その日はオバマ大統領来日のため虎ノ門病院には精鋭のドクターが集結していて、緊急オペのを受けることができました。しかもタイガースファン憧れの虎ノ門病院に2ヶ月も住めるなんて。(笑)
主人は患者さんが困っていれば、夜中でも早朝でも治療してきました。
主人が人と真剣に向き合ってきたからこそ、たくさんの人が支えてくれたのでしょう。
60 日いた虎ノ門で誰も訪問者がなかったのは、たった2 日間というほどたくさんの人がお見舞いにきてくれました。
つらいことがあったからこそ、人のやさしさに気づくことができたのです。
6、ハイボクノウタ
第6章 回復
あっという間に2 か月がすぎ、高松の病院に転院しました。
しかしふるさとで待っていたものは、高く冷たい壁でした。
「まさか歩けるようになるとか、よくなるとか思ってないですよね。意識がもどっても一生寝たきりか、よくて車いす。歩けるようになるなんて希望はもってもむだですからね」
医師の無機質な声が遠ざかっていきます。心を床に叩きつけられ、踏みにじられる。涙があふれて、あふれて、希望の光が吹き消されました。
呪いのようにその呪文がよみがえり、主人のまえでは泣かないようにがんばりますが、帰りの車にのると涙があふれてきます。
「一生寝たきりか、よくて車いす。歩けるようになるなんて希望はもってもむだですよ」
呪いを解くため、誠心誠意尽くしてくれた虎ノ門病院の担当医に電話しました。
医師はひとつひとつ私の不安に答えてくれ、最後にこんな言葉をくれました。
「僕たちはちゃんと知っています。あなた方がたくさんの人に助けられていたこと、あなたがご主人の回復を信じて必死でがんばっていたことを。みんな知っています。
信じてください。神様はがんばる人を必ず応援してくれるんです」
あとで知りましたが、その先生は当時29歳でした。
やっとふるさとへ帰ったのに、いつもいっしょだった家の中に主人の姿がない。スーパーへ夫婦できている人たちを見るだけで涙ぐんでしまいます。
さみしいとき、何か相談したいとき、いつも話をきいてくれた人がもういない。
私だけが一人とり残されたと嘆いていたある日、不思議な感覚に襲われます。
ちょうど倒れて 3 か月目でした。
「あっこの人、今日帰ってきた」
いつものように病院内を車椅子で散歩して、主人をベッドによこたえます。
「めぐちゃん」えっ、空耳だと思って顔を近づけます。
「いわんといかんことがあるんや。めぐちゃん、ただいま。なんかおれ、遠いところにいっとった気がする。 ただいま、めぐちゃん、ただいま」
7、勇者の石
第7章 退院、殺意、虐待、安定剤
ひとつの山を越えるたび、ほっとするまもなくつぎの山が待っています。
しかも山は越えるたびに高くなっていきます。
主人が帰ってきたのは一瞬で、またすぐ元の状態へもどってしまいました。
待ちに待った退院はゴールではなく、さらに過酷な戦いのはじまりでした。
あの日「いってきます」といってでかけ、8 か月ぶりに我が家へ帰ってきた姿は、歩けない、意識もはっきりしない別人です。
病院の指示でポータブルトイレをベットサイドに置きなさいといわれましたが、私は小さな希望を信じて主人を車いすでトイレに運び、抱えて便器に座らせることを選びました。まさか1時間に10回以上もトイレに運ばなくてはならいことなど想像もしませんでした。
右脳の半分近くの損傷を受けるということは、人格をも破壊しているのです。
発語ができた喜びもつかの間、食べた直後から「お腹が空いた」を
夜中に突然叫びだし、私は慢性の睡眠不足でノイローゼ状態です。
息子や娘は「尊敬する人は?」との問いにいつも「父です!」と答えていたはずなのに、この狂人を受け入れるのは無理でした。
孫はやさしかったじいじと遊んでもらっていたのに、怖くて寄ってこようとしません。
リーダーをなくした家族は、音を立てて崩れていきました。
「いいかげんにしてよ!」主人に一度も殴られたことの私がとうとう手を挙げました。
思いっきり平手打ちで尊敬する人を叩いてしまったのです。
さらに私の暴力はエスカレートしていきます。
「死ね!」馬乗りになって、口をふさいでも叫びつづける主人の首を絞めました。
虎ノ門病院で 「先生、主人を助けてくれて、ありがとうございました」といったとき、 「ありがとうといってくれてうれしいです。死ねばよかったのにといわれるご家族もいますから」という言葉を思い出しました。
こんなに苦しい思いをするのなら、いっそあのとき死んでくれたらよかったのに。
夫殺しで両親を失う息子や娘の顔が浮かびます。
首を絞められても「かまんよ」と主人は私を見返します。
「これだけは、やっちゃいかん!」と我に返り、飛びのきました。
このままでは私自身が危ないと、拒みつづけてきた精神安定剤飲を主人に飲ませることを決心しました。
1か月後、主人はみごと廃人になってしまいました。
能面のごとく無表情で目の焦点は合わず、ヨダレをたれ流し、立ちあがることもできなくなりました。
そんな廃人を見たデイサービスの人は 「やっと落ちついてよかったですね」と笑います。えっ、よかったって、あんたらのため?
主人はデイサービスで虐待もされていました。
「お風呂、死ぬ。怖い、怖い!」
自分の手で頭を押さえて、沈められるしぐさをします。
水中に抑えこまれたり、ちっちゃい部屋に閉じこめられたり、動けない場所に寝かされていたらしい。
騒いでる主人をスマホで撮った動画を見せられたこともあります。モノのように扱われている主人を見て、今までに5かしょほどデイサービスをやめました。
もちろん主人の介護がたいへんなのは私がいちばんよく知っています。
しかしプロとして、人として、その仕事を選んだ自分の責任として、職業の自覚と人としてのやさしさをもってほしいと思う人をたくさん見てきました。
たぶん主人はガンダムを操縦する中の人が、操縦の仕方を忘れ、わけがわからない動きをしてるだけじゃないかなって思えるようになったのでしょう。
ならば操縦方法を思い出すまで根気よく働きかければいい。
私は自分を励ますため、部屋中に主人が笑っている写真をはりまくります。
どれもこれも最高の思い出で「いつかいっしょに笑おうね!」と話しかます。
主治医にはないしょで安定剤と睡眠剤を1年かけてじょじょに減らしていきました。
何度も何度も、医者やケアマネージャーからいわれます。
「そこまでする奥さんは良妻をとおりこして異常です。奥さんが倒れてはいかんから、ご主人を施設に入れたほうがいいですよ」
あんたら、私たちの34 年間を知らんやろ。主人は結婚してからずーっと私を宝物のように扱ってくれた。大切にしてくれて、いつも味方でいてくれて、いつも私がやりたい事を応援してくれて、自分より私を優先してくれて、 本当の幸せを感じさせてくれた。そんな私たちを知らんやろ。私は主人に甘えるばかりで何ひとつお返しできなかった。いくら恩返ししても、この人からもらったものの足元にもおよばん。
そんなおっきな愛がこの世にあることを、あんたらは知らんやろ!
生きる価値のない人などいない。生きる意味のない人生なんてないんや!
8、名もなき命
第8章 現在回復中
あの世からもどった主人は、ときどきあの世に遊びにいきます。
「今、おまえの父さんと府中ダムへ釣りにきとんや。バスがよう釣れるで〜」
昼間は意思疎通もできないのに、夜中に目を覚ました主人は流暢に会話します。
「父さんに私も元気やって伝えておいて」
「ああ、おまえにがんばれよっていってたで」
夢であの世に帰ったときは、障害という着ぐるみを脱いで、父さんと釣りしてたんだろうな。
不思議なことに記念日はいつもおぼえているんです。
元気なときから、誕生日、結婚記念日、クリスマスには決まってプレゼントをくれる人でした。
「めぐちゃんの誕生日だから買い物いっしょにいってくれんか?」って、デイサービスの人と買い物にいったという。
「めぐちゃんはひまわりが好きやから」ってお花屋さんにいって、自分で選んで、包装もおとなしく待っていたそうだ。
クリスマスは必ず子どもと孫や私と母にもプレゼントをくれて、店員さんに「包装は無料ですか?」って真顔で聞いたんだって!
結婚した34年間は天国、倒れた6年間は地獄。
もちろん現在進行形の地獄を幸せっていったら嘘になる。
でもこの人やからがんばってこれたんやと思う。
いつも二人で出かけていたことも、いっしょに何かすることもできなくなったけど、 塩のはいったカラフルな絵の具で描く「塩絵講師認定書」を連名でいただきました。
以前は二人のコラボ作品を描いていたけど、 最近は主人も自分の作品を描くようになり、それがまた芸術的!
2回のAKIRAライブで私は堂々とみんなに主人を紹介できたし、主人は立派にあいさつしできた。
このオペラをきっかけに、主人といっしょに全国を講演して、講演先が旅行先になったらいいなぁというのが私の夢です。
たしかに生きとるってしんどいことやわ。自殺はいかんよっていうのはかんたんだし、生きてるだけで丸儲けって思えない人もたくさんいるよ。
どん底のときは笑えんかったし、光探せないし、 雨が降り続くことはないなんていわれても、明けない夜はないっていわれても響かない。
だからあなたがそんな人に出会ったら、そっと抱きしめるとか、声をかけるとか、寄り添うとか、いっしょにお茶したり、よしよしっていってくれるだけでもいいの。
いまだに私は人間できてないから、主人に一方的な夫婦喧嘩をしかけることもある。
「私イライラしてあたってしまうけど、ごめん」
「かまんよ、かまんよ。めぐちゃんは当たる人、おれしかおらんもん。おれらおたがいひとりっ子やけん、おれにあたってかまんよ」
このオペラの原稿もきれいごとばっかり書けんから事実そのまま書くよっていったら、主人は堂々と答えました。
「かまんよ、かまんよ。おれ恥ずかしい生き方してないから」だって!
9、PUZZLE
第9章 高次脳機能障害(様々な後遺症)
脳へのダメージを原因として、高次脳機能障害を発症します。
具体的に生じる症状としては、
言葉がうまく出てこなくなり、言いたいことが言えない
言葉をうまく発音できない
ものの理解がうまくできない
気持ちを抑制できない。
主人は、左側空間無視の症状もあり、
左側が見えないのではなく、ありません。
だから、ピアノをするにも、左側を気づかせてあげないといけないのです。
様々な症状から、よく、子どもになったと思えばいいよ!と、よく言われます
でも、主人は子どもじゃないんだ。
私の旦那なんだ。
どんな姿になっても、何がどんなに理解出来なくても、
私の旦那なんだ。
元気な時に、支えてくれて、大きな愛で支えてくれて、
私の心をいっぱい、膨らませてくれた、
旦那なんだ。
子どもじゃない。
子どもって思った事もない。
もちろん、内面の事は、そうかもしれない。
そして、「子供になった」と考えた方が、楽かもしれない。
子どもなんだから、出来なくて当然。
でも私には、子どもじゃない。
2人でこの先も、一緒に笑って行きたい、大切な旦那なんだ。
他の人は、それで平気かもしれんけど、私は、子どもとは思えないの。
毎日色々あるけどね、
「新郎 弘 あなたはここにいる めぐみ を、病める時も 健やかなる時も
富める時も 貧しき時も、妻として愛し 敬い 慈しむ事を誓いますか?
新婦 めぐみ あなたはここにいる 弘を病める時も 健やかなる時も、富める時も 貧しき時も夫として愛し 敬い 慈しむ事を誓いますか?」
この誓いに「はい」 と、誓い合った仲なの。
だから、頑張れてるの。
10、 魂の声を聴け
第10章 めぐとひろしのあいさつ
皆さん、今日はありがとうございました。
もし、あなたが急に倒れてしまったら・・・・・
いつか、いつかと伸ばしてきたあの夢も、
いつか、あの人に伝えようと、思っていた事も出来なくなるのです。
人生にはいろいろな事が起こるけど、
あなたは、人生の試練に押しつぶされてる場合じゃない!
人の目を気にして、自分の気持ちを、後回しにしている場合じゃない!
せっかくの人生!
「人生は素晴らしい!」と、心に決めて、
自分の為の、今を生きてみませんか?
無いものや、失ったものに気を取られていると
得たものや、まだあるものに気づかずに、
心配な、苦しい事ばかりの人生になるけど、どんなに失っても
与えられているものの方が、なるかに多いはず。
マイナス探して生きるより、当たり前なプラスが、いっぱいある事に
気が付かるかどうかが、幸せなんじゃないかと、
私は、ようやく思えるようになりました。
大丈夫!人はそんなにやわじゃないから!
生きて、楽しみ見つけて、生き抜いて、人生をたのしみましょ。
起きる事を「なぜ?」と思えば、苦しみになるかもしれません。
でも、「これでいいのだ!」と、乗り切れば、
きっと、いい日がきます。
他力本願では、夢はかないません。
あなたの人生、今、変わるのも、いつか変わるのも、自由です~~
あなたの命の時間が、幸せでありますように・・・
ご清聴ありがとうございました!!
10、えん
11、ありがとう
鳴り止まぬ拍手、観客全員が感動の涙を流し、腹を抱えて笑い、生きる力を充電した。
オペラ終了のBBQにはなんと50人が参加してくれる。
ひろしさんの誕生日が近かったので、キャンドルケーキをひろしさんが吹き消し、AKIRAが歌う「happy birthday」にみんなでコーラスして祝ったてくれた。
このオペラは2025年5月3日(土)めぐ&ひろし結婚25周年記念日に香川県高松市で上演されるので、全国からお越しください。
バトンを受け取ってくれた主催者は、高松市の理学療法士、藤田ゲンさんです。
この最高傑作オペラは、めぐ&ひろし&AKIRA、20万円パック(3人の交通費、宿泊費、ギャラ全込み)で全国どこへでも行きます。
主催してくれる方はAKIRAまでメールください。