ハロウィン肖像画シーズンⅡ-9、まりこ | New 天の邪鬼日記

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小説家、画家、ミュージシャンとして活躍するAKIRAの言葉が、君の人生を変える。



オレはすべての人の人生をリスペクトする。

富や賞賛、成功や地位などどうでもいい。
誰もが命という宝物を必死で運んでいる姿に感動してしまうのだ。
妻の車椅子を押して踏切を渡る老夫婦にも泣いてしまうし、電車で化粧するOLさんにも「愛されたいんだね」と微笑み、部活帰りの高校生にも「つらい練習を今日もよくがんばったね」と感心する。

今日の主役は札幌に住むまりこだ。
札幌でやったミニオペラの全編をのせておこう。


60年間、自分の人生を恥じてきたまりと申します。
いきなり主催のアールさんから「まりのオペラをやりなよ」という衝撃的なひと言をいただいたのです。
なにしろアールさんは麻薬中毒で刑務所に5回も入り、その経験を活かして『とかちダルク』代表で、保護士の国家試験をみごと取得し、薬物中毒者や刑務所から出た人をたくさん救っている偉大な存在です。
どん底から這い上がってきたアールさんに「マリのどん底人生をさらけ出せ。それは生きづらさを抱えているたくさんの人に勇気を与える」と言われます。
刑務所に5回も入った怖い人から言われたら、みなさんも断れませんよね?
アールさんが書いてくれた私のオペラ原稿をAKIRAさんが手直ししてくれ、自分が今このステージに立っているのが信じられません。
私はお弁当工場で毎日8時間下を向いてキャベツを切ったり、ベルトコンベアーでお弁当を詰める作業で首の骨が損傷し、現在も生活保護を受けています。
みなさんの税金から私は救われているいわば寄生虫です。
社会的にはゴミのような私に、もとニューヨークでギャングや泥棒をやっていたAKIRAさんはいいます。
「まりは生きているだろう? なんでその命に感謝できねえんだ。
私なんか最悪の人生、平凡な人生という人も、掘り起こせばその人でなきゃ生きられなかった唯一のドラマがある。
マリの人生は恥なんかじゃない。自分の人生を語れ。それが同じ苦しみをくぐっている人を救うんだ。それがまりの人生の本当の価値なんだよ。
生きる価値のない人などいない。生きる意味のない人生などない」と。
そんなわけで、60年間、自分の人生を恥じてきた私が今ここで場違いのステージに立ち、恥ずかしい人生を語らせてもらいます。

「ぎゃーーーー!」(強烈な悲鳴)
1階から人間のものとは思えない悲鳴が聞こえてきました。
中学生の私が弟と階段を駆け降りると、ずぶ濡れの母が倒れています。
真っ赤になった皮膚からは水蒸気がたちのぼり、大きな鍋が転がっていました。
泥酔した父がろれつのまわらぬ言葉で必死に救急車を呼んでいます。
「妻が熱湯をかぶりました!すぐきてください!」
気の小さい父は毎晩家で大酒をくらい、母に暴力をふるっていました。
父の暴力に耐え切れなくなった母は、自ら煮え湯をかぶって自殺しようとしたのです。

母は1人目の子を流産し、 占い師に観てもらうと、「その子はあなたを守る存在 になって、ちゃんと次の子を授かるからだいじょうぶ」と言われました。
母は私を妊娠したとき、「今度こそ健康に生まれてください」と毎日お腹をさすりながら祈りつづけたそうです。
1960年の朝、母の念願である私が長女として無事生まれてきました。

2、「Hello My Mom」(サビのみ)

しかし私が1歳になるまえに『くる病』という骨が柔らかくなる病気にかかり、死ぬか生きるかの大騒ぎになりました。
農家だった父は高額な治療費を出してくれ、私は幼稚園にはいる頃には全快していました。
私の誕生を祈ってくれた母や、くる病を救ってくれた父に感謝しなくてはいけないのに、私はいい子供ではありませんでした。
外では引っ込み思案なくせに、両親には反抗します。
内弁慶の父に似ていたのかもしれません。

私が高校の時、禁止されていたディスコに友達といき、帰り道で警察に補導されます。
父が交番に一升瓶をもっていき、なんとか学校に知らせないでくださいと頭をさげたので助かりました。
しかし私にガミガミ説教する母に、私はいってはいけない言葉を吐いてしまいました。
「じゃあなんで私なんか産んだのよ! 私なんか生まれてこなければよかったんだ」
一瞬、母の顔が蒼白になり、涙声でつぶやきました。
「私はおばあちゃんにも、そんなことを言ったおぼえがないよ」

母が口癖のように「手に職をつけておけば食いっぱぐれがないよ」と言っていたので、小樽にある冨岡ドレメ洋裁学校にはいりました。
不器用な私でも自分で何かを作りあげることができる洋裁は好きでした。
自分のペースでひと針ひと針、ていねいに縫っていきます。
その服を着た人の喜ぶ顔を想像して縫うのが喜びでした。



私が21歳の時、19歳の弟が結婚して家を出て、母も父に行き先を告げず家を去りました。
酔った父は母の引っ越し先をしつこく私に聞いてきます。
「うるさい!」
私が父を突き飛ばすと、階段を転げ落ちていきました。
やばい、死んでしまうかも!
私がダッシュで階段を駆け降りると、父は首を押さえてうめき、むち打ち症になりました。
マジ危なかった〜。打ちどころが悪ければ父親殺しの犯人になってしまったかもしれないのを神様に感謝しました。
私は酒乱の父にはないしょで荷物をまとめ、母の元に引っ越しました。
あ〜やっとあの暴力親父からはなれられたと、思っていた矢先、突然、不幸が訪れました。
酔っ払った父が、母の兄を脅し、母が働く札幌の仕事先である食堂にのりこんできたのです。
運よく母は出勤前だったのですが、食堂から電話があり、「さっき酔っぱらったご主人がきたから、もうここにはこないほうがいいよ」
母は札幌郊外にある定山渓のホテルのメイドに仕事を変えました。

一方ひとり残された父は酒の量も増えていき、何度も仕事をクビになり、自分の兄弟や私の弟にも金をせがみにいくようになり、廃人のようになっていきます。
とうとう観念して、自ら病院に入りました。

私は母と同じ職場でいっしょに働き、父のいないおだやかな生活をはじめて味わいました。
住み込みで食事もつく仕事だったので金銭的にも余裕が生まれ、服や車を買うこともできました。
母と休みの日に札幌で買い物をしたり、ドライブする幸せな時間を過ごせたのです。


ある日母がお腹が痛い、おしっこが出ないと言い出し、病院で検査すると、胃潰瘍や白血病と診断され、数ヵ月の命と余命宣告されます。
それでもタバコを吸っていた母に、私は「タバコはやめて!」と怒鳴ります。
ふつうなら言い返す母が、タバコをもみ消し、「私を心配してくれてありがと。マリのひとことでタバコをやめる決心ができたわ」と微笑みました。

53歳の母が入院して9カ月、32歳の私は毎週お見舞いに通い、抗がん剤で抜けた母の髪の毛をガムテープを丸めて集め、母と静かな1日を過ごします。
思えばやさしい母にずっと反抗してきた私が素直になれたのは、母の最後の時だけです。
2人部屋なので、となりの人のほしいものを買ってきてほしいと母に頼まれ、私は母の役に立てる親孝行の喜びを味あわせてもらいました。
母が亡くなる前日、定山渓のホテルで働いていた私は、客室のクモをティッシュで握り殺しました。
仕事としては当然なのに、不吉な黒雲が心をおおっていったのです。
翌日の朝、弟からの電話で「お母さんが朝7時に亡くなった」と母の死を告げられました。
出勤前の私は大声をあげて号泣しました。
「私を残していかないでー。お母さんがいないと私は何もできないのよー!」
母の兄の車が迎えにきて叔父の家に連れていかれ、布団に横たわる母の遺体と対面しました。
白い布をめくり、母の顔を見たとたん、母への思いが涙とともに突き上げてきます。
最初の子を流産し、「今度こそは健康に生まれてください」と毎日私のいるお腹をさすって祈りつづけ、お腹を痛めて私をこの世に生み出してくれた母。
毎日父から暴力を受けながら私と弟を守ってくれた母。
「手に職をつけなさい」と洋裁学校に通わせてくれた母。
仕事がつづかない私を同じ職場に呼んでくれ、いっしょに買い物やドライブを楽しませてくれた母。
入院してから親孝行の思い出を作ってくれた母。
母は私に生きることのすべてを身をもって教えてくれました。
札幌駅の人混みにもまれ、「母を亡くした私は一人ぼっち」だと立ち尽くしていました。
「おまえは邪魔者だ!」と言わんばかりにたくさんの人が肩をぶつけてきます。
気の弱い私は何度も母の元へいこうと自殺を考えましたが、死ぬ勇気さえもてない自分を責めてきました。


ある日バスでとなりに乗り合わせた人が、1枚のフライヤーをくれました。
「たくさんの人の人生を変えてきた人のライブだからきたほうがいいよ」
「新興宗教か?」と疑いましたが、当時53歳の私は自己否定のどん底にいました。
200人もいるベルトコンベアーでお弁当をつめる工場で働き、「どんくさい」とか、「あんたの目がきつい」とか人間関係に苦しんでいたのです。
大人数が苦手な私がAKIRAライブの会場にはいり、AKIRAさんのあやしいルックスを見て「こなきゃよかった」と後悔しました。
ところが「心がくしゃみをした朝」という曲で、人に好かれない、鈍臭い、生きててもしょうがない私でも生きてていいんだと驚き、「ドレス」という曲では、自分をおとしめる人も自分を成長させてくれる大切な悪役などと歌われ、度肝を抜かれました。
自分が世間から洗脳されてきた価値観が180度ひっくり返ってしまったのです。
「えっ、私は私のままでいいの? 恥ずかしい私の人生って価値があったの?」
って全肯定されてしまったのです。

それ以来、北海道のAKIRAライブで一眼レフで写真を撮りつづけ、アールさんやAKIRAさんとラーメンを食べる仲にまでならせてもらいました。
この人たちはどんな無様な人生も否定しません。
むしろ誰からも認めてもらえない失敗に満ちたちっぽけな人生ほどすばらしいと賞賛する、、、変態です!
AKIRAライブに通いはじめてから、私の世界観が180度変わりました。
私の人生を恥じなくてもいいんだ、
私は私にしか生きられなかった人生を誇りに思っていいんだと思えるようになったのです。
大好きだった洋裁を再びはじめました。
まだお金にはなりませんが、60年間も「我慢」だけで生きてきた私が「自分が好きなことをやっていい」というGOサインが出せました。
AKIRAさんがいいます。
「マリの人生は恥なんかじゃない。自分の人生を語れ。それが同じ苦しみをくぐっている人を救うんだ。それがまりの人生の本当の価値なんだよ。
生きる価値のない人などいない。生きる意味のない人生などない」と。

3、名もなき命(AKIRA)(引用ここまで)


まりこが必死で生きている姿に感動するね。
人は60歳過ぎていようが、気づいた瞬間から本来の自分を生きれる。

まりこに壮大なバックは似合わないので、10作品中唯一である部屋にした。
まりこのお宝であるミニミシンのオルゴールをもち、白いニットのミニチュアドレスが青い壁にかかっている。
まりこの着てい「グラニースクエアー」(おばあちゃんの四角)のクロシェット(鐘)ポンチョに苦労した。
グラニースクエアー のマス目は1個で72もあり、それが15個あるので、1080個ものドットを1個1個、編み物の法則を勉強して埋めていった。
しかも1つのドットに3つのトーンを重ねているから、3240個分の作業である。
さらに影やしわの陰影をつけるからたいへんだった。


まりこの背景は透明なアクリル板を切り抜いて、小さなシールを貼りつける。
左下から時計回りで、キャンドル(一隅を照らす)、イルカ(優しさ)、螺旋の花(成長)、ハチドリのクリキンディ(できることをしなさい)、家(住むところに困らない)、船、青い薔薇(冷静)、ハート、黄色いチョウ、ピンクの薔薇(愛情)、ヤモリ(家の守り神)、赤い薔薇(情熱)、カメ(ゆっくりでいい)、定山渓の温泉マーク、食べ物に困らないようスプーン、車、目のついた赤い手(ハンドクラフトの守り神)、カメレオン(変化を恐れない)、メキシコの切り抜き旗、黄色いケルトの十字架、てっぺんはフライングハートにM(両側にMARIKOのアルファベット)、
ここから右側。
キリストの十字架、冠の神様、祖先のドクロ、丸い鏡、メッセンジャーの手紙、自転車、心の鍵、太陽、魚、ピンクの薔薇(愛情)、まりこの一眼レフ、糸巻き、定山渓の山、オレンジの薔薇(楽しむ)、赤い薔薇、月、フォーク、切手、ミニチュアの麦わら帽子、生ビール、ホワイトピンクの薔薇(純粋さ)、クリスマスツリー、りんご、ピザ、飛行機、無限マーク、サボテン、ニワトリ(まじまりを告げる)、水道(命の水)、万(お金に困らぬよう)、オレンジジュース(飲み物に困らぬよう)、とんぼ(広い視野)

ベッドカバーは印象派の野原のように美しいパステルカラーで、グラニースクエアーのAKIRAサインが右下にある。
ハロウィンメイクもシール風で、ひたいのボタンは洋裁のサードアイ、ほほのカーネーションはお母さんとまりこ、あごは洋裁の針刺し。
まりこの首にはトルコ石と勇者バッファローのダブルネックレス。

部屋の絵は壮大なバックよりデザインと配色のセンスが問われる。
左下のかわいいティーカップー顔ー右上のニットランプと、右上のミニドレスー顔ーAKIRAサインという強力なX構図だ。
さまざまなシンボルが散りばめられたさわやかでかわいい逸品ができた。

F15号(652×530mm


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