Vol.982-3/3 R巻頭-94。歴史(観て歩き)レポ-県都編:10<香西寺> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.982-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:10<香西寺>

16.香西寺 <撮影:2012.07.18 and 2015.05.01 and 2017.06.19>

香西寺(こうざいじ)は真言宗大覚寺派の寺院。山号は寶幢山(ほうどうざん)。本尊は延命地蔵と称する地蔵菩薩。

四国別格二十霊場第十九番札所、四国三十三観音霊場第三十三番札所、四国讃州七福之寺毘沙門天。

 

寺伝によれば、奈良時代の天平11年(739年)に行基が勝賀山の北麓に庵を結び、宝幢を刻んで宝幢山勝賀寺として創建したといわれている。この場所は奥の堂と呼ばれており、奈良時代〜平安時代の瓦片が出土することから寺院跡とみなされ、勝賀廃寺と呼称されている。平安時代前期の弘仁8年(817年)空海(弘法大師)が現在地に寺院を移し、地蔵菩薩像を刻んで安置したと言われる。嵯峨天皇の勅願寺となり、朱雀天皇の讃岐国勅旨談議所となったが、その後は衰微していたようである。鎌倉時代になり、この地の豪族・香西左近将監資村が鎌倉幕府の命により寺院を再興し香西寺と名付けた。

 

その後は香西氏の庇護を受けることとなった。南北朝時代には室町幕府の守護大名の細川頼之が本津(現在の香西東町)に移転し、香西氏11代当主の香西元資が地福寺と改称した。戦国時代の天正年間(1573年-1592年)には戦火により伽藍が焼亡した。桃山時代に讃岐国の大名として配された生駒親正が復興し高福寺と名を改めた。

江戸時代前期の万治元年(1658年)失火により伽藍を焼失し、再び現在の地に移転した。寛文9年(1669年)高松藩初代藩主松平頼重が伽藍を整備し別格本山 香西寺と改称した。しかし、その後も失火に見舞われ再建がなされている。  (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

香西寺-高松市香西西町211

▼香西寺-香西氏とともに歩んだ寺、平安時代の毘沙門天立像。

 

 

JR高松駅より瀬戸大橋通り・さぬき浜街道(県道173・16号線)を西に向かい、本津川大橋を渡って左(南)に曲がると、香西の町の旧道に出る。香西の町は「むきむきの町」と云われる。それは、香西氏の支配した戦国期における藤尾城の総構えによるもので、道が至る所で折れ曲がり、家の向きが整然としていないからである。

 

▼むきむきの町の姿

 

 

香西の町の中心部からやや西、勝賀山の山裾にあたる所に「香西寺」がある。

勝賀山北麓の奥の堂とよばれる所に、奈良時代から平安時代後期の古瓦の出る寺跡(宝幢山勝賀寺跡)があり、そこが創建の場所と考えられる。

現在地に再建されたのは、1669(寛文9)年、高松藩初代藩主の松平頼重のときである。

 

<概 要><歴史遺産>

▼香西寺-寺標とお迎え毘沙門天、仁王門

▼香西寺-仁王

 

▼香西寺-参道、境内

 

▼香西寺-本堂

 

▼香西寺-毘沙門天と大師堂、大師堂

 

▼香西寺-毘沙門天堂

 

▼香西寺-境内と鐘楼堂、鐘楼堂

 

▼香西寺-境内から仁王門を見る、観世音菩薩像

 

▼香西寺-水掛地蔵尊御宝前

▼香西寺-厄除弘法大師

 

 

香西寺には、平安時代中期の「木造毘沙門天立像」(国重文)がある。高さ約1mのヒノキの一木造で、表情はおとなしい。恐らくこの像は、寺が奥の堂に有ったとき以来のものであろう。

 

▼木造毘沙門天立像(web引用-水彩画風変換)

 

<関連遺産>

香西の芝山(43m)には香西水軍の城、「芝山城跡」がある。

 

▼芝山城跡(芝山神社)-1

 

▼芝山城跡(芝山神社)-2

 

▼芝山城跡(芝山神社)-3

 

▼芝山神社、扁額

 

▼芝山城跡・芝山神社・芝山天狗伝説の説明板、石鎚神社

▼芝山神社-社殿、虚空蔵聖像

 

▼芝山から見る-香西港、香西港大橋

 

▼芝山から見る-香西港と屋島、屋島・長崎の鼻

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

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