Vol.981-3/5 R巻頭-93。歴史(観て歩き)レポ-県都編:09<国分台遺跡-他3> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.981-2/5に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:09今岡古墳・国分台遺跡・石船石棺・国分寺六ツ目古墳

<12.今岡古墳> <撮影:2011.01.29 and 2018.05.22>

高松市の西部、本津川流域を見下ろす全長60.5mの前方後円墳で、古墳時代中期(5世紀頃)に造られたと考えられている。この古墳の特色は、埴輪(はにわ)が多く使われていることがあげられ、筒型をした一般的な円筒埴輪はもちろん、家形や蓋(きぬがさ)等の形象埴輪も多く採集されている。

また古墳には河原石が散乱しており、古墳全体を石で敷きつめる葺石の名残りと考えられる。

昭和39年(1964)には、前方部から、全国的にも類例を見ない組合式(くみあわせしき)陶棺が発掘され、若い女性とみられる人骨とともに、鏡や玉類が出土した。

東の方に立地する石清尾山古墳群と比べ、葺石で墳丘を飾り、多量の埴輪が立てられた今岡(いまおか)古墳は、当時の中心地であった近畿地方の強い影響を受けていると考えられている。                 (高松市HP)

 

<所在地・外観>

▼今岡古墳-高松市鬼無町佐料449-14・鬼無町佐藤1102-3

▼今岡古墳-陶棺・埴輪・神獣鏡が出土、畿内王権との関係 

 

 

高松市内から県道33号線を西南に向かい、JR鬼無駅手前のJA鬼無支店の交差点で右(西)に曲がって坂道を上がって行くと山地池があって、香川誠陵中学校・高校が見えて来る。

私は、JR鬼無駅をスタートして今岡古墳へ向かった。

 

▼JR鬼無駅をスタート、JA鬼無支店の角を左折

 

▼勝賀城跡登山道を進む、鬼無町の案内板

 

▼曲がった坂道を上がる

 

<概 要><歴史遺産>

今岡古墳」(県史跡)は、香川誠陵中学・高校の運動場に隣接した見晴らしの良い丘陵上にある。

 

▼山地池と香川誠陵中学・高校、香川誠陵中学・高校

 

 

周囲には古墳が沢山有るが、その中でも今岡古墳は偉容を誇っている。

はっきりとした前方後円墳で、3段に造られており、墳丘上に円筒埴輪が2段に配列されていた。

 

▼今岡古墳-墳丘、墳丘図

 

 

河原石が散乱している状況から、葺石(ふきいし)と多くの埴輪で飾られた畿内色の強い古墳で、地域色の強い石清尾山古墳群とは対照的である。

 

▼今岡古墳の墳丘

 

▼今岡古墳の墳頂

 

 

この古墳を有名にしたのは、前方部から出土した陶棺(とうかん)で、かまぼこ形の丸い蓋を持ち、全体が素焼きの組合せ式になっていた。陶棺の中には、若い女性の人骨のほか、ヒスイの勾玉・管玉や「上方乍意(じょうほうさっきょう)」の銘のある倭製神獣鏡などが出土している。これらの出土品は県立ミュージアムに展示されている。

 

▼出土品(陶棺)-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼出土品(陶棺)-2、陶棺図面(web引用-水彩画風変換)

 

▼出土品-勾玉、一仙五獣鏡(web引用-水彩画風変換)

 

 

組合せ式陶棺の年代は、古墳時代前期末に遡り、前期中頃に讃岐で始まった刳り抜き式石棺との関連が想定できる。立地条件を考えると、今は内陸部に向いているが、古墳時代においては本津川の河口がもっと上流にあり、海に近い場所に立地していたであろう。今岡古墳前方部の被葬者も、瀬戸内海を介して畿内王権と繋がりのあった人物と考えられよう。

 

<関連遺産-1>

目を転じて背後を見ると、北西方向に聳える山は勝賀山(かつがやま)(364m)で、この山頂には香西氏が牙城とした「勝賀城跡」がある。登り口は香川誠陵中学校・高校の北側の道を少し東へ行った所にある。

 

▼貴船神社と勝賀山、勝賀城登山道入口(鬼無町)から見る

 

▼勝賀城跡登山道入口のakijii、勝賀城跡の説明板

 

▼勝賀城跡の登山道-1、作業道からの勝賀山

 

▼作業道からの登山口、標高220mの位置

 

▼勝賀城跡の登山道-2(赤子谷との分岐点) 、山頂が近い

[29][30]

 

最初に造られたのは承久の乱(1221年)の後、讃岐武士藤原氏の棟梁となった香西氏の初代資村(すけひら)が築いたと云うが、整備されたのは戦国時代で、長宗我部氏との戦いの時である。

山頂には、堅古な土塁で囲まれた本丸跡がよく残っている。

 

▼勝賀城跡(山頂)に到着、要塞城跡の山頂

 

▼勝賀城跡(山頂)の様子-1

 

▼勝賀城跡(山頂)の様子-2、祠と勝賀城跡の説明板-1

 

▼龍王社の祠、祠前のakijii

 

▼三等三角点、標柱(標高364m)

 

 

香西港や瀬戸内海を一望でき、中讃の要を押さえた香西氏の城に相応しい。

 

▼頂上からの眺望

 

 

<関連遺産-2>

勝賀山の麓にあたる今岡古墳の東北約600mの所には、勝賀城の里城(さとじろ)にあたる「佐料城跡」がある。

 

▼興津神社の入口、佐料城跡の説明板

▼奥津神社へ進む、奥津神社の境内

 

▼佐料城水堀跡

佐料城跡で唯一残る遺構の水堀で、幅約4m程のL字になっている。

 

 

<関連遺産-3>

また香西氏終盤の総構え(総曲輪)をとった「藤尾城跡」は市立香西小学校(香西本町)の北側に有り、現在は宇佐八幡宮となっている。

 

▼宇佐八幡宮(藤尾城跡)-1(入口全景、社号標・香西の案内板)

 

▼宇佐八幡宮(藤尾城跡)-2(藤尾城の標柱と説明板)

▼宇佐八幡宮(藤尾城跡)-3(参道石段、随神門)

 

▼宇佐八幡宮(藤尾城跡)-4(石段総数104、拝殿)

 

▼宇佐八幡宮(藤尾城跡)-5(拝殿扁額、本殿)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.981-4/5をご覧ください。