Vol.941-2/3に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-中讃編:28<阪出墾田之碑>
<38.阪出墾田之碑> <撮影:2017.09.24>
文政十二年八月(1829)坂出墾田(さかいでこんでん)は三年余の月日と久米通賢の辛苦によって竣工した。藩主松平頼恕は大いにその功を称え、その偉大な業績を不朽とするため、旧地と墾田地の境で、墾田地の東西中央にあたる天神社境内にこの碑を建て顕彰した。
製作は江戸に於いて行われ、文は儒員岡内棣に命じ、書は当時楷・隷書日本一と称せられた加賀藩の河三亥(市河米庵)に特に依頼し、彫刻は江戸の名工広瀬群鶴の子群亀を選んで刻させたもので、文政十二年十二月、海路遠くここに運んだと云う。この碑の建立に藩主の熱意のほどが偲ばれる。
かくのごとく該碑石は、坂出市の発展の起点として大きな意義を持ち、また江戸時代碑石の代表として貴重である。
このため、昭和三十二年一月十一日、坂出市文化財保護条例によって指定されたものである。
(坂出市教育委員会-現地説明板)
<所在地・外観>
▼阪出墾田之碑-坂出市京町3-3-5
▼坂出人工土地2階以上の住宅ゾーン、阪出墾田之碑-坂出発展の礎、塩田開発の記念碑
JR坂出駅前の県道20号線(駅前通り)を北へ行くと、通りの東に「坂出人工土地」が現れる。
<関連遺産>
▼県道20号線(駅前通商店街)を北上
▼元町・京町の交点を右折(右に塩の彫刻)、塩の彫刻「海の女神」
▼人工土地の石碑、坂出人工土地の1階部の壁面
1962(昭和37)年から進められた人工土地方式による都市再開発の先駆けとなった事業で、市街地の中心に残っていた老朽化した住宅地を再開発し、コンクリート製の人工地盤1万1274m2をつくり、1階を商店街に、2階以上に住宅142戸などを造った。また、再開発には緑地や児童遊園地・広場、集会所や市民ホールなども有機的に配され、立体的な都市再生が図られた。
▼県道19号線沿いの坂出人工土地商店街-南から観る、北から観る
▼京町二丁目と一丁目の堺の道路、京町二丁目の坂出人工土地商店街
▼坂出人工土地-1階の商店街ゾーン-1
▼坂出人工土地-1階の商店街ゾーン-2
▼坂出人工土地-2階以上の住宅ゾーン-1
▼坂出人工土地-2階以上の住宅ゾーン-2
▼坂出人工土地-2階以上の住宅ゾーン-3
▼坂出人工土地-2階以上の住宅ゾーン-4
▼坂出人工土地-市民ホール
▼坂出人工土地-広場
県道20号線を北に向かうと、県道33号線と交わる交差点の南東隅に「菅原神社」(坂出天満宮)がある。
▼菅原神社-全景、東から見る
▼菅原神社-境内、拝殿と牛の像
▼菅原神社-拝殿の扁額、由緒
その境内の北端に、覆屋(おおいや)をいただいた「阪出墾田之碑」がある。
<概 要><歴史遺産>
坂出発展の「礎」となった坂出塩田を築いた久米通賢(くめみちかた)の業績を刻んだもので、1829(文政12)年に高松藩9代藩主松平頼恕(よりひろ)が加賀藩抱えの能書家市河米庵(いちかわべいあん)に依頼し、江戸の石工広瀬群鶴(ひろせぐんかく)・群亀(ぐんき)父子に彫らせ、海路で運ばせたもので、高さ2.14m・幅1.35mの巨碑である。
▼阪出墾田之碑
▼阪出墾田之碑
菅原神社の北側を走る県道33号高松善通寺線の坂出市内区間には「久米通賢街道」の愛称がついている。
▼久米通賢街道
高松松平家に伝わる絹本著色坂出墾田図(香川県立ミュージアム保管)には、この阪出墾田之碑が描かれ、その北は広さ約60haにおよぶ入浜式塩田(東大浜・西大浜)が広がっていた事が解る。
▼右側は東大浜緑地、東大浜緑地
▼両景橋頂点から見る久米町方向、中央町方向
▼両景橋の頂点を越えてみる西大浜北方向、左側は西大浜緑地
▼西大浜緑地
その後、第二次世界大戦前には塩生産量日本一を誇った坂出塩田も、戦後は枝条架式(しじょうかしき)を経て、昭和40年代に廃止された。
JR坂出駅から線路沿いを西へ行くと、「鎌田共済会館郷土博物館」(国登録)があり、久米通賢ゆかりの資料などが展示されている。
▼鎌田共済会館郷土博物館
▼鎌田共済会郷土博物館-パンフレット
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
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