Vol.928-1/2に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-中讃編:15<金倉寺>
<23.金倉寺> <撮影:2014.05.09 and 2017.07.25>
四国霊場八十八ヶ所・第76番札所。天台宗寺門派の園城寺の末寺で、本尊は智証大師作の薬師如来、脇に日光・月光両菩薩を安置している。
また、寺宝としては鎌倉時代の作で国の重要文化財「絹本著色智証大師像」と室町時代の作とされる市指定文化財の「絹本著色両界曼荼羅」がある。
空海の姪の子にあたる円珍(智証大師)が原田の里にあった道善寺を金倉郷の円珍誕生の地に移転拡大し、延長6年(928年)に金倉寺(こんぞうじ)と名を改めたと伝えられている。
明治時代には、善通寺第十一師団初代師団長の乃木希典が宿舎として住み、狩野派の絵師が描いた襖絵も見事な客殿には、文具や軍帽などの遺品が大切に保管されている。 (香川県HPより)
<所在地・外観>
▼金倉寺-善通寺市金蔵寺町1160
▼金倉寺-円珍(智証大師)の寺、鬼子母神の訶梨帝堂
JR金蔵寺駅の南側から東へ進み、県道25号線を横切り200m進むと、四国八十八個所霊場76番札所の「金倉寺」の仁王門に着く。
<概 要>
▼JR金蔵寺駅
▼金倉寺仁王門-1
▼金倉寺仁王門-2
▼金倉寺-仁王
当地は丸亀・多度津・琴平・西讃方面との交通の要衝にあたり、仁王門前の旧伊予街道沿いには旅館や料理屋、芸妓の取次ぎなどをする検番が並んだ門前町・宿場町の家並みが残っている。
▼門前町・宿場町の家並み
<歴史遺産>
金倉寺は延暦寺5世座主、園城寺(おんじょうじ)(三井寺)中興、天台宗寺門派開祖の円珍(智証大師)が生誕した地に近く、寺は円珍の祖父がこの地に観音堂を建てた事に始まる。
▼参拝入口、入山大師像
▼本堂と智証大師一千百年遺忌供養搭、本堂
▼大師堂
▼弘法大師一千五十回忌之搭、巡礼七福神-布老人
▼巡礼七福神-寿老人、福禄寿
▼巡礼七福神-弁財天、恵比須神
▼巡礼七福神-毘沙門天、大黒天
円珍の父は和気宅成(わけのやかなり)、母は空海の姪だが、和気公氏(きみうじ)は大化改新以前の稲置(いなぎ)(世襲の地方官職)の系譜を引くとみられ、寺の南西一帯は今も稲木町(いなぎちょう)と言う。
▼稲木町の地名標
所蔵する「絹本著色智証大師像」(鎌倉時代後期、国重文)は三井寺や聖護院所蔵の大師彫像に酷似している県内最古の肖像画である。
▼絹本著色智証大師像(web引用-水彩画風変換)
陸軍第十一師団長乃木希典は、師団司令部と丸亀の歩兵第十二連隊との中間の距離に位置する当寺の客殿に、2年半ほど住んだ。9月第1土・日曜日の円珍・乃木祭には、書簡や愛用品が公開され、地域に伝わる盆踊りの一種で、所作が次第に激しくなる「シカシカ踊り」(県民俗)が奉納される。
▼金倉寺-乃木将軍妻返しの松、円珍・乃木祭-1(web引用-水彩画風変換)
▼円珍・乃木祭-2(web引用-水彩画風変換))
▼円珍・乃木祭-3(web引用-水彩画風変換)
▼円珍・乃木祭-シカシカ踊り(キッズ)(web引用-水彩画風変換)
本堂の横に安産・育児の神とされる鬼子母神(きしもじん)を祀る「訶梨帝堂(かりていどう)」があるため、江戸時代から寺への道筋は「かりてい社道」と呼ばれた。
▼訶梨帝堂-1
▼訶梨帝堂-2
仁王門の背後の新羅神社の境内に、当地出身で幕末の日米和親条約交渉に際し、翻訳や条約案文の作成・折衝に奔走した河田迪斎(かわだてきさい)の没後五十年祭碑がある。
篆額(てんがく)は徳川宗家の徳川家達(いえさと)、撰文は漢学者・日本史学者の重野安繹(しげのやすつぐ)、書は明治書道界を風靡した日下部鳴鶴(くさかべめいかく)で、県内第一の石碑とされている。
▼新羅神社
▼河田迪斎没後五十年祭碑
金倉寺の境内で、1925(大正14)年11月、小作料の不払いから裁判所による稲立毛(いなたちげ)(刈り取り前の稲)の競売が行われ、日本農民組合香川県連合会(日農香川県連)の仲多度郡連合会などが約3000人を動員し、地主代理人への投石などから警官と揉み合い、組合幹部ら36人が騒擾罪(そうじょうざい)などで起訴され、全国の耳目を集めた(「金蔵寺事件」)。
当時の日農香川県連は、組合員数・組織率全国一を誇り、日農の中心的な位置を占めていた。
金倉寺のすぐ北側の県道33号線「善通寺市金蔵寺町交差点」の傍に、概要を記した「金蔵寺事件之碑」がある。
▼金蔵寺事件之碑
<関連遺産>
JR金蔵寺駅から旧伊予街道を西へ約1km進むと、永井清水(ながいのしみず)(湧水)がある。
律令(りつりょう)時代の南海道の甕井(みかい)駅はこの付近とされ、江戸時代には丸亀藩主や幕府巡見使の休憩所の永榎亭(えいかてい)(永井の茶屋)があった。
▼永井湧水-榎木之湧-1
▼永井湧水-榎木之湧-2
さらに西へ約300m進むと、金毘羅参詣の旧多度津街道に出合う。
道の両側にある石柱は、1946(昭和21)年12月の南海地震で倒壊した鳥居の基部である。
北からの旧多度津街道はここで左折して東へ200mほど進み、「はしくら道」の道標のある地から右折して善通寺へ向かう。
▼南海地震で倒壊した鳥居の基部、南側の道標と常夜燈
▼南海地震で倒壊した鳥居の基部-西側、東側
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀






















































