Vol.860-4/6 雑学63。かがわ探訪Akijii77撰-51<4.城址:05>(丸亀城) | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.860-3/6に続けてご覧ください。

 

▼三の丸東櫓台から見る北方向のパノラマ景

▼三の丸東櫓台から見る瀬戸大橋の遠景、東方向(東側の下方に内濠が見える)

 

▼三の丸東櫓台から見る南方向の月見櫓跡、月見櫓跡へ進む

 

▼月見櫓跡に着いた、月見櫓跡から見る飯野山

三の丸南東部角に位置する2階建て櫓の跡で、讃岐富士「飯ノ山」が正面に見える。

 

▼月見櫓跡から見る東方向のパノラマ景.

▼勤王碑と延寿閣別館へ進む、二の丸の石垣-1

 

▼勤王碑、延寿閣別館

勤王碑は、幕末から明治初めに活躍した郷土の勤王志士、土肥大作、村岡宗四郎が大正8年に贈位されたのを記念して、勤王志士遺烈表彰会が大正12年に建立した。土肥大作は、天保8年に現城西町で生まれ、征討軍参謀を経て新治県(茨城県)参事在任中、明治5年3月、36歳で死亡した。村岡宗四郎は、弘化2年魚屋町で生まれ、母箏子は、香川郡円座

村の勤王家小橋道寧の息女。その影響で勤王を志し活躍中、慶応3年1月、22歳で死亡した。

延寿閣別館は、昭和8年に丸亀藩京極家六代藩主京極高朗公の隠居部屋であった「延寿閣」とこれに連なる貴賓室の別館が建築された。「延寿閣」は、昭和60年老朽化の為、解体されたが、今残る「延寿閣別館」は、麻布にあったもと京極家江戸藩邸の建物の一部を移築したもの。

 

▼吉井勇の歌碑へ進む-1

 

▼吉井勇の歌碑へ進む-2

 

▼二の丸の石垣-2

▼二の丸の石垣-3

▼三の丸跡、二の丸の石垣と天守

 

▼二の丸長崎櫓跡、吉井勇の歌碑へ進む-3

 

▼扇の勾配、吉井勇の歌碑へ進む-4

 

▼吉井勇の歌碑に着いた、吉井勇の歌碑の説明板

三の丸戌亥櫓跡のそばに「人麿の歌かしこしとおもひつつ海のかなたの沙弥島を見る」と歌われた歌碑がある。

 

▼吉井勇の歌碑と城壁、この先は「南西の帯曲輪石垣の修復工事」で通行禁止-1

 

▼この先は「南西の帯曲輪石垣の修復工事」で通行禁止-2

 

▼この先は「南西の帯曲輪石垣の修復工事」で通行禁止-3、現場状況-1

三の丸井戸は、山崎氏時代の絵図に描かれている井戸で、深さ三十一間と記されており、抜け穴伝説のある井戸だが、明治初期の建物取り壊しの際に本丸建物の壁土や瓦が井戸内に堆積し、現在は空井戸となっている。

 

▼現場状況-2

 

▼南西方向の遠景(奥に大麻山・五岳山・天霧山)、南西方向のズーム景(丸亀高校・奥に五岳山)

 

▼二の丸へ進む-1(往路を引き返す-正面奥に戌亥櫓跡)、二の丸へ進む-2

 

▼二の丸へ進む-3、戌亥櫓(いぬいやぐら)

戌亥櫓は明治2年の藩邸(旧京極家屋敷)の火災により消失した。火災で焼けた石垣は赤く焼け、柱のあった場所は黒くなっている。藩邸(はんてい)が全焼した大火災の状況を生々しく伝えている。

 

▼戌亥櫓跡から見る眼下の番所・長屋・芝生広場、瀬戸大橋

 

▼戌亥櫓跡から見る天守、二の丸へ進む-4

▼二の丸へ進む-5

 

▼二の丸への登り口に戻った、二の丸へ山崎坂を上る-1

 

▼二の丸へ山崎坂を上る-2

 

▼二の丸へ山崎坂を上る-3、二の丸跡に着いた

山上で二番目に高い位置にある平場(曲輪)で、平成6年度に整備された。本来、石垣上には長崎櫓や番頭櫓(ばんとうやぐら)をはじめとする四棟の櫓と多聞が巡り、大手には櫓門があった。

 

▼二の丸井戸へ進む、北の奥に二の丸井戸

 

▼二の丸井戸、二の丸井戸の説明板

丸亀城で最高所にある井戸で、現在も水を湛(たた)えており、絵図には三十六間(約65m)と記されている。

丸亀城築城にまつわる悲しい伝説のある井戸である。

 

▼二の丸隅櫓跡へ進む、二の丸隅櫓跡

 

▼二の丸隅櫓跡から見る飯野山、二の丸隅櫓跡から見る北(丸亀港)方向の遠景

 

▼二の丸隅櫓跡から見る北東(瀬戸大橋)方向の遠景、本丸へ向かう

 

▼本丸へ進む-1

 

 

引き続き、Vol.860-5/6をご覧ください。