Vol.664-2/5に続けてご覧ください。
Favorite place
<讃岐国分寺跡>
讃岐国分寺は、天平13年(西暦741年)に聖武天皇が諸国に国分二寺を造営するように命じたことによって建立された国営の寺院である。正式には金光明四天王護国之寺といい、尼寺に対して僧寺とも呼ばれる。現在の四国霊場80番札所である国分寺を含む東西330メートル、南北240メートルが特別史跡として指定されている。国分寺境内には、金堂跡や塔跡の礎石が残り、現在の本堂には当時の講堂跡と考えられる礎石が使用されていることが確認されている。また、昭和58年度~平成3年度にかけて保存整備事業のために実施された確認調査によって築地塀跡、僧房跡、鐘楼跡などが確認された。その結果、中門、金堂、講堂が一直線にならび、中門から金堂へととりつく回廊の中に塔が配置される大官大寺式の伽藍配置であることが判明した。僧房跡の発掘調査では、地覆と呼ばれる間仕切り施設が非常に良好な状態で残っており、僧房の間取りを復元することができた。現在、史跡地の一部は、公園として整備され僧房跡などが復元され公開されている。(高松市HP)
▼讃岐国分寺跡-1
▼讃岐国分寺跡-2
▼讃岐国分寺跡-3
▼讃岐国分寺跡-4
▼讃岐国分寺跡-5
▼讃岐国分寺跡-6
▼讃岐国分寺跡-7、讃岐国分寺跡を後に80番札所「讃岐国分寺」へ寄る
<歩行メモ>
▼左(東)方向に見えて来た、「五色台観光・讃岐国分寺跡・四国のみち」の各案内板
▼「讃岐国分寺跡」の案内板、四国霊場80番札所「讃岐国分寺」に着いた
<四国霊場80番札所「讃岐国分寺」>
奈良時代の創建当時の遺構をよく残した寺で、旧境内の全域が四国で唯一の国の特別史蹟。本堂は、前面と背面に桟唐戸のある鎌倉中期に再建されたものです。また境内地の中心部には創建当時の本堂の礎石・33個が点々と配置されていて、現在の唐招提寺の金堂に匹敵する規模です。また、山門を入ってすぐ右手には七重の塔の礎石も残り、現存すれば京都・東寺の五重塔を超す大塔だったと推定されます。寺の創建は聖武天皇の時代。勅命を受けた行基菩薩が開基した讃岐の国の国分寺です。その後、弘仁年間(810〜823)に弘法大師が本尊千手観音像を修理し、霊場に定めますが、「天正の兵火」で堂塔のほとんどを焼失。鎌倉時代には西大寺の末寺であったとする記録があり、その頃、現在の本堂が建てられ、その後、高松藩主・生駒氏や松平氏のひ護を受け、今に至ります。また、この寺で有名なのは四国最古の梵鐘(ぼんしょう)大蛇がかぶっていたという伝説とともに次のような実話があります。江戸初期の藩主・生駒一正公は、当時この鐘を高松城の鐘にしようと、田1町(ちょう)と引き換えに手に入れます。ところが、城へ運ぼうとすると思ったより異様に、大勢の人馬を必要としました。しかも、城についた途端音がならず、おまけに城下では悪病が流行。そして、自身も病に倒れた 一正公の枕元に毎夜鐘が現れ「もとの国分へいぬ(帰りたい)」と泣くのです。そこで結局、鐘は国分寺へ返すことに。城に運んだ時と違い、今度はなぜか少人数でも軽々と運べた上、鐘が国分寺へ戻った途端悪病は治まり、再び美しい音色を聞かせるようになったという伝説が残っています。
(四国八十八箇所霊場会HP)
▼四国霊場80番札所「讃岐国分寺」-1
▼四国霊場80番札所「讃岐国分寺」-2
▼四国霊場80番札所「讃岐国分寺」-3
▼四国霊場80番札所「讃岐国分寺」-4
▼四国霊場80番札所「讃岐国分寺」-5
<歩行メモ>
▼讃岐国分寺を後にして県道33号線に戻る、県道33号線に戻った
<コース歩行メモ>
▼県道33号線の後(東)方向-「青年センター→」標識が見える、県道33号線から見る讃岐国分寺
▼国分寺町国分を西方向に進む-4、国分寺町新開交差点
▼国分寺町新開交差点の左(南-JR国分駅)の方向、国分寺町国分を西方向に進む-5
▼坂出市府中町へ入った、右奥に「日向王の塚」
▼「300m先←国道11号線→」の標識、左(南)奥は国道11号線の沿線
▼坂出市府中町を西南に進む-1、「←国道11号線→」の標識
▼前谷東交差点に着いた、前谷東交差点-1
▼前谷東交差点の右(西)方向-1、左(東)方向-1
▼前谷東交差点-2
▼前谷東交差点の右(西)方向-2、左(東)方向-2
引き続き、Vol.664-4/5をご覧ください。















































