Vol.549-4/5 人の失敗は許す。<史跡探訪-中讃編05:善通寺市金蔵寺・中村・碑殿町> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.549-3/5に続けてご覧ください。

 

▼牛額寺へ向かう-1

 

▼左側に上池、右側に大池

 

▼法然上人-蛇岩の説明板、蛇岩(碑殿町月信)

この辺は石切谷と呼ばれ、「十五丁石」という凝灰岩の採石が行われていた。明治時代に石屋がこの蛇石をとろうと下あごの部分を欠くと血が出てきたため、驚いて中止したという話もあるという。

 

▼法然上人の歌碑-善通寺:逆修燈、まんのう町:法然堂

 

▼天霧山(牛額寺の方向)ズーム:中央右手に神社が見える、牛額寺へ向かう-3

 

▼左側上は「大地蔵」、高松自動車道を潜る-1

 

▼高松自動車道を潜る-2、牛額寺が見えてきた

 

 

<探訪史跡-4:牛額寺/奥院(薬師堂)

善通寺の末寺で、日本紀略によれば弘仁9(818)、讃岐国多度郡にひとつの身体に2つの頭がある子牛が生まれた、とある。また寺の境内に牛穴と呼ばれる洞穴があり、白方村大久保(多度津町)まで通じていて、霊牛が出入りするなど不思議なことがよく起きたという伝説がある。この牛額寺は、もともと現在の場所ではなく北の山際にあり、今でもその場所には「牛穴」の跡が残っていて、牛額寺跡の薬師堂もあり、今ははっきりとは見えないが、牛穴の下には磨崖仏(まがいぶつ)が彫られている。また、多度津町の奥白方大久保の山中に、まるで山を挟んで牛穴と対するような風穴があるといわれており、付近には霊験な雰囲気が漂っているという。

 

▼牛額寺-遠景、外観

▼牛額寺-参道口の階段、参道

 

▼牛額寺-山門、鐘楼

 

▼牛額寺-本堂など工事中、全景

 

▼牛額寺奥院(薬師堂)へ向かう-1

 

▼牛額寺奥院(薬師堂)へ向かう-2、牛額寺を振り返る

 

▼牛額寺奥院(薬師堂)へ向かう-3、牛額寺奥院(薬師堂)に着いた

 

▼牛額寺奥院-薬師堂、石塔群:1

 

▼牛額寺奥院-月照上人と信海の石像、勤王僧月照・信海両上人由来記

月照は文化10年、吉原村下所に生まれ、叔父蔵海(当時の住職)弟子入りし、23歳で叔父の後を継ぎ、清水寺成就院の住職となり近衛家や青蓮院宮の下に出入りし国事を論ずるが、安政の大獄の時、京都を脱出し西郷隆盛と共に薩摩に逃れるが、島津斎淋公没後で藩政厳しく、処置に困り、日向へ「永送り」とし、錦江湾で西郷と二人で海に身を投げ西郷は息を吹き返すが、月照は46歳で帰らぬ人となる。弟、信海も当寺で出家後、叔父・兄とともに京都へ上りやがて高野山で修業し、兄の後を受け継ぎ、第25世として成就院の住職となり、これも勤皇に尽くし、やがて幕府に捕縛され、翌6年に39歳で獄死した。讃岐の生んだ維新の傑僧の遺徳を正しくかつ広く世に伝える為に、昭和5年に両上人の銅像を建立。その後、戦時中の金属の応召で銅像を供出し台座だけとなったが昭和534月石像として再建された。

両上人の辞世の句は

<月照>大君の為には何か惜しからむ 薩摩の迫門に身は沈むとも

信海西の海 東の空と変われども 心は同じ君が代のため

 

▼牛額寺奥院-月照上人像、信海上人像

 

▼牛額寺奥院-牛穴、牛穴前の石塔

 

▼牛額寺奥院-奇岩、魔崖仏

▼牛額寺奥院-石塔群:2

 

 

<歩きメモ>

▼牛額寺奥院の近くの神社へ寄る、神社-1

 

▼牛額寺奥院の近くの神社-2

 

▼萬福寺へ向かう-1

 

 

<リャリ走行メモ>

▼牛額寺奥院の入口へ戻った(マイチャリも無事だ) 萬福寺へ向かう-2(左側を走行)

 

▼萬福寺へ向かう-3、道路が見える

 

▼高松自動車道の手前(北側)の道に出た、「月照・信海上人像の参道」是より三丁上の案内

牛額寺奥院の入口から走行して来た道は「月照・信海上人像の参道」であった。

▼萬福寺へ向かう-4

 

▼片山権左衛門翁顕彰碑

 

▼萬福寺へ向かう-5

 

▼十五丁自治会場前、萬福寺へ向かう-6

 

▼萬福寺へ向かう-7、萬福寺に着いた

 

 

引き続き、Vol.549-5/5をご覧ください。