今報の雑学 最終ランナーをなぜアンカーというのか
大正6年4月27日、関東・関西に分かれて京都-東京間で、初の駅伝を開催する。
日本初の駅伝で最終ランナー(アンカー)を務めたのは関東チームが金栗四三、関西チームが日
比野寛であった。なお、「駅伝」という言葉はそのとき初めて使われた。コースが京都~東京間であ
ったため、東海道五十三次の宿場(駅舎)にちなみ、スポーツ界の長老・武田代三郎がそれを「駅
伝競走」と命名。ところで、問題のアンカーだが、駅伝にかぎらず、トラックでのリレー競技や水泳で
も、最終ランナー、最終泳者のことをアンカーと呼ぶ。アンカーと言えば、なかには船のいかりのこと
を思い浮かべる人もいるかもしれないが、実は最終ランナー(アンカー)は、そのいかりのことである。
その昔、綱引き競技が盛んだったころ、一番後ろに最も体重の重い人を置いて、引きずられないよ
うにした。最後尾の人はいかりの役目をしたために、アンカーと呼ばれた。
それが、やがて駅伝や水泳にも用いられるようになった。
<Flower arrangement>
山本七平氏の名著『「空気」の研究』に、次のように書いている。
いわば彼を支配しているのは、今までの議論の結果ではなく、その『空気』になるものであって、人が空気から逃れられない如く、彼はそれから自由になれない。従って、彼が結論を採用する場合も、それは論理的結果としてではなく、『空気』に適合しているからである。採否は『空気』が決める。
従って『空気だ』と言われて拒否された場合、こちらにはもう反論の方法はない。人は、空気を相手に議論するわけにはいかないからである。『空気』これは確かにある状態を示すまことに的確な表現である。人は確かに、無色透明でその存在を意識的に確認できにくい空気に拘束されている。
従って、何かわけのわからぬ絶対的拘束は『精神的な空気』であろう。以前から私は、この『空気』という言葉が少々気になった。そして気になり出すと、この言葉は一つの”絶対の権威”の如くに至るところに顔を出して、驚くべき力を振るっているのに気づく。空気の責任は誰も追及できないし、空気がどのような論理的過程を経て、その結論に達したかは、探究の方法がない。
日本には「坑空気罪」という罪があり、これに反すると最も軽くて「村八分」刑に処せられる。
統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的検証も、一切は無駄であって、そういうものをいかに精緻に組み立てておいても、いざというときは、それらが一切消し飛んで、すべてが「空気」に決定されることになるかも知れぬ。…と。
現在の日本のマスコミを支配しているのは、一貫して”空気”なのだ。
空気は、まさに山本氏の言うように「絶対的権威」として、あちこちに顔を出し、甚大な力を行使する。しかも、同時に山本氏の言う通り、空気に責任を取らせることは、この世の誰にもできない。
空気がマスコミの論調を変え、世論に影響を与え、選挙結果を操作し、最終的には政治と歴史を変えてしまう。空気の結果、国家がおかしな方向に向かったとしても、その責任は誰も取れない。
なぜなら、”空気”だからである。
新居宮池とWalking & Potteringの風景
水鳥の泳ぎを描く宮池。
神戸、須磨パークヒルズCYGNUS棟27階から望む明石大橋。
A seasonal flower
ウォーキングコースに咲いていたボケ(木瓜)
ボケ(木瓜、学名: Chaenomeles speciosa)は、バラ科ボケ属の落葉低木で、果実が瓜に似ており、木になる瓜で「木瓜(もけ)」とよばれたものが「ぼけ」に転訛(てんか)したとも、「木瓜(ぼっくわ)」から「ぼけ」に転訛したとも言われる。学名の speciosa は、「美しい」、「華やか」、Chaenomeles は「chaino(開ける)+ melon(リンゴ)」が語源で、日本に自生するボケは、クサボケといわれる同属の植物である。
樹高は1~2mで、若枝は褐色の毛があり、古くなると灰黒色となる。樹皮は縦に浅く裂け、小枝は刺となっている。葉は長楕円形・楕円形の長さ5~9cmで、鋭頭でまれに鈍頭。基部はくさび形で細鋭鋸歯縁。花は3月末~4月末で葉よりも先に開く。短枝の脇に数個つき、色は基本的に淡紅、緋紅。白と紅の斑、白などがある。
<Akijii展、作品-93>
引き続き、Vol.253-2/3をご覧ください。







