Vol.159-1/3に続けてご覧ください。
大黒天(だいこくてん)
七福神の大黒天は、出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)の大国さんでなく、仏教の大黒天(摩訶迦羅)であり、ご本体は、久遠のお釈迦様(永遠なるもの真実)のご変身の姿(物心ともに貧しき人のため福を授けようと大黒天の姿になっておられる)であり、その形相は黒色忿怒層であったが、鎌倉時代の頃より、大国主命と結びつき、恵比須神とともに一般に知れ渡り、今の福相となられ、左手に袋、右手に槌を持たれ、米俵の上に座られた姿となった。日蓮聖人も厚く信仰されて、その大黒天神法には「もし安置し供養すれば、千人の人を養い厨房を潤す。
もし、三年専心に供養せば、必ず富貴、官位、福緑を授与す。必ず自然に栄え楽しみが倍増して四季に美しい味の食を備える」と書かれている。
慈愛同仁、寿福円満、開運招福、商売繁盛の神様。なお、松ヶ崎大黒天は、京都の子丑の方角(表鬼門)に祀られ、京都の鬼門守護の福の神である。
法然寺は、鎌倉時代前期の建永2年(1207年)に讃岐国讃岐に配流された浄土宗開祖の法然が立ち寄った那珂郡小松荘(まんのう町)に生福寺が建立される。
江戸時代前期の寛文8年(1668年)に徳川光圀の実兄にあたる高松藩初代藩主松平頼重が、戦乱で荒れ果てていた生福寺を法然寺と改名して、香川郡百相郷(現在地)に3年の歳月を要し移転・建立した。
寺院背後の仏生山丘陵上を削平し般若台と呼ばれる松平家の墓所を設けて、当寺院を高松藩主松平家の菩提寺とした。
▼境内案内図、本堂
▼大黒天
弁財天(べんざいてん)
もとはインドの河川や水の神様で、水辺に奉られることが多いのはそのため。神話によると、流れる水の美しい音から妙音天・美音天などとも呼ばれ、美や音楽、技芸、学問の神様として信仰されている。
鎌倉にある「銭洗い弁天」のようにお金を増やしてくれる神様でもある。
さらに仏教では、人々に財宝を与え、障碍(しょうがい)を取り除くという誓願を加えている。すなわち、現世に生かされている全ての人々は、愛別離苦(愛するものとも、いつかは別れなければならない)、怨憎会苦(嫌なことにも、逢わなければならない)などの苦があるが、弁天さまにお祈りすることによって、あたかも清き水が全ての汚れを清めるが如く、解き放たれる。
讃岐国分寺は、聖武天皇が天平13年(741年)に発した国分寺建立の詔により、日本各地に建立された国分寺の1つである。
寺伝では行基が千手観音(千手観世音菩薩)を本尊として開基したとされるが、現存する本尊像は当時のものではない。
史実としては、具体的な創建年は定かでないが、『続日本紀』には天平勝宝8年(756年)、讃岐国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したとの記載があり、この頃には完成していたものと思われる。
現・国分寺境内を含む讃岐国分寺跡は国の特別史跡に指定されている。
▼お迎え弁財天、お願い弁財天
毘沙門天(びしゃもんてん)
にこやかな七福神のなかで随一、甲冑(かっちゅう)に身を包んでいかめしい表情をしている。
そのはずで、仏教では多聞天の名をもつ四天王の一人で、北方守護の役目を担う最強の神様。
香西寺は、高松市北西部の勝賀山北東麓に位置する。仁王門からほぼ一直線に参道を進むと本堂がある。
本堂向かって右側に国の重要文化財に指定されている毘沙門天立像を安置する毘沙門堂があり、更にその右には大師堂兼護摩堂がある。
寺伝によれば、奈良時代の天平11年(739年)に行基が勝賀山の北麓に庵を結び、宝幢を刻んで宝幢山勝賀寺として創建したといわれている。
鎌倉時代になり、この地の豪族・香西資村香西左近将監資村が鎌倉幕府の命により寺院を再興し香西寺と名付けた。
その後は香西氏の庇護を受けることとなった。
江戸時代前期の万治元年(1658年)失火により伽藍を焼失し、再び現在の地に移転した。寛文9年(1669年)高松藩初代藩主松平頼重が伽藍を整備し別格本山香西寺と改称した。
しかし、その後も失火に見舞われ再建がなされている。
▼お迎え毘沙門天、本尊毘沙門天
▼本尊毘沙門天
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