メルボルンには、他州や他国から来る新規の学生(正規&交換)に対して、“On Arrival Services for Interstate and International Students”、略して OASIIS というサービスが提供されていまーす。![]()
到着後の空港お迎えサービス(無料)
一時的アコモデーション・アシスタンス
長期的アコモデーション・アシスタンス
の3つが含まれているんです。
実は、そんなサービスがあるとは知らず、ちょうど空港からはSkybusかタクシー、どっちを使おうかな?と、考えていたところだった。
でも、せっかくあるのだったら、
遠慮なく利用させていただきまーす
ちなみに、Skybusとは、空港と都内をつなぐ割安なバスサービス。毎10-15分発車して、空港と都内の Spencer Street Station (新しいな名前は、Southern Cross Station)を行き来する。移動時間は、道路状況にもよるが、最短で20分。2008年現在で、片道16ドル、往復26ドルとけっこうお得なサービス
私は、空港無料お迎えサービスを利用させてもらいます
申込みも簡単。OASIISのログインページに行き、学生番号とパスワード(生年月日)でログインし、何日の何時に到着するのか、そして航空名と便名を記入して、SUBMITすれば
後ほど、確認のメールが指定のメールアドレスに届くようになってます。
サービスは、TOGOTO Pty Ltd という他会社にアウトソースされていて、予約はサービス利用時の72時間前までに済ませることが条件なようです。
早速、予約してみました。やったー!これで一安心だぞ
信じるということ。
これは、永遠のライフワークだと思う。
最近、改めて感じることは、知るということ、考えるということ、そして信じるということは、まったく別なことだということ。
知っているから、または、知るために信じる、のではなく。
考えているから、または、考えるために信じる、のでもなく。
あくまでも、信じるから知り、信じるから考える。
この違いは大きい。
知識がつけばつくほど、信じることが難しくなるときがある。
客観的に物事を見、クリティカルに考える能力を身につけると、同時に見えなくなるものある。
そのたびに、自分の信仰はまだまだ上辺で表面的なものだな、と気づかされる。
結局は、都合の好い神様や真実を作り上げている自分を発見してしまうから。
私は、熱心な信者でもなければ、正式にどこかの宗教団体に属しているわけでもないのだけど、
神、真実、光…呼び方はいろいろあるけれども、それは存在すると信じている。
ただ、ずいぶんとフォルムには悩まされた。どの形式でそれを追求するか。
それも無理もないと思う。生まれてから、田園が広がる三重県の田舎でのびのびと育ち、トトロの世界というわけではないけれど、空、太陽、山、緑、全てに神々が宿っている(アニミズムとでもいうのかな?)ことを頭でなく体と直感で覚えてしまった。そして、3歳くらいになると、キリスト教の理念に基づいた生活団というフリースクールに通い、与えられた恵に感謝することと、神様にお祈りをすることを覚えた。そして、幼稚園は、最寄の幼稚園に通ったのだけれども、ここは仏教の教えに基づいた幼稚園だったため、南無妙法蓮華経のお経を唱えることを覚えた。
イギリスに転校してからは、キリスト教の学校だったからチャペルで賛美歌を歌い、お祈りをするわけだけど、親友はイスラム教の子だった。日本人だけど日本に住んでいないということで、なぜか家の国語辞典や漢字辞典をめくることを覚え、季節や自然と日本語は親密に交わっていることを覚えた。神は言語にも存在するのではないかとも思ってきた。
宗教学のクラスでは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、そして Sikhism, Sufism, Quakers等、一般的に代表される宗教について、そして、現代のスピリチュアルブームについても一通り勉強する。教会はシナゴグやモスクにも訪れてみたり、けっこうおもしろかった。といっても小学校高学年のレベルだけれど。それでも、「全ての宗教の共通するものは何か?」などエッセイを宿題として書かされたことを今でも覚えていて、これは、道徳や社会のクラスとしてけっこうよかったと思う。でも宗教学は、けっきょく宗教を客観的に勉強するのであって、実践ではない。
十代後半は、よく分からないが、社会のあらゆる常識や構造に対して変に批判的で(いわゆる普通のティーンエージャー?)、信仰とは別の次元で、キリスト教をはじめ、あらゆる宗教を「学」、宗教学、してみた。リチャード・ドーキンやダーウィンの進化論などについても知り、科学と宗教の関係についてもっと知ろうとした。無神論者の言い分も一理あると思った。ヨガやアユールヴェダなどスピリチュアルブームにはまってみたり、ポストモダンダンスや脱構築主義的な芸術にも魅かれた。バックパックの旅にもはまった。今思えば、それらを通して、合理的で科学的言語がドミナントな、ややドライな "disenchanted"な世界でも、何か満たされたかったのかもしれない。Enchantedされたかったのだと思う。
長々となってしまって脱線しまくりだけど、結局、どのイズムもイデアもイデオロギーも、一時的な恋愛も、ダンスやヨガという身体ムーブメントも、求めていたものではなかった。
今でも思想には興味あるし、ヨガもするし、恋愛ももちろんするし、別に否定をしているわけではない。
ただ、どんだけ自分の中を見つめても、答えは見つからなかった。
人それぞれ人生のフィロソフィーはあるだろうけれど、少なくともその時点で、世の中にはどうやら信じなければ見えないものがあるようだ、とやっと気づいてきた。Seeing is believing とよくいわれるが、どうやら believing is seeing.のようだ、と。
二十歳前後のある夏の日、当時通っていた京都の大学の図書館で、私はウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という有名な一行に出会った。『論理哲学論考』(Tractatus Logico-philosophicus)の最後の命題。哲学専攻でもなかったけれども、妙に印象に残った。
―語りえぬもの―
それからしばらくして、ある宝石デザイナーの人と知り合いになった。彼女は、アルケミストみたいな人で、金属を加工してきれいな作品を仕上げていく。その人は、啓蒙主義の時代から分類されてしまった数学、科学、哲学、神学を宝石を作ることのよって、それらをつなげていくことが仕事というのだ。一体、何を言っているのかよく分からなかったけれど、それはどうだっていい。その人が、Rumiのことを教えてくれた。13世紀のペルシャの詩人。「私が現在考えているあらゆることが、何世紀も前にも同じように誰かが考えていたと知るとほっとするの」と。
よくわからないけど、しばらくして古本屋でRumiの詩集があったので、それを数ドルで購入して市電の中で読んだ。びっくりした。シンプルな言葉なのに、いったい何が書いてあるかさっぱり分からなかったから。何回も読み返した。それでも理解できなかった。それはすごくフラストレーションだった。私は、好奇心旺盛で、とことん知りたいし、とことん理解したい、という困ったクセが身についてしまっていたから。シンプルな表現ならなおさら。本当に、面倒くさい性格なんだよね。
またしばらく経って、アフリカのケニアに訪れた。ドゥルマ族の長老であるバーバとの出会いは私の世界観を180度変えてしまった。彼は、シャーマンであり、太鼓を叩き、音楽を奏でることで神と対話する。うさんくさい話に聞こえると思うけど、実際その場にいけば、それは普通のように取れる。彼は、年齢を記録する文化に属していないので、IDも年齢不詳を書いてある。人は、生まれ、子供になり、青年になり、成人し、大人になり、家族をつくり、年齢を重ね、老い、悟り、長老となり、村を見守り、自然に戻る。ただそれだけさ、と言う。そして、子供たちを見て、「みーんな僕のこども!」と大きな笑顔。自然と神と生命と歌と踊りと恵み。なんとなくわかってきた。もっと素直で心がオープンで、信じることを恐れなければもっとすんなりと入っていけるんだろうけど、私はとても時間がかかるよう。
しばらくして、大恋愛をするんですが、その時にRumiと再開。その時に、やっとRumiの言葉を「読む」ことができた。信じなければは読めない。Rumiはスーフィーであり、彼の美しい言葉は、まさに神にsurrenderし、神と交わることで紡ぎだされるから。聖書もそう。信じなくて、ただ何か知識を得るために読むのなら、それは、intellectually interestingかもしれないけど、結局本当に読んだとは言えないんじゃないだろうか。
実は、学部の論文が、イスラム教とメディア・レプレゼンテーションについてだった。その時に、私はまったくイスラム教のことを知らないことに気がき、コーラン入門書みたいなのを読み、一通り知った気でいたけれど、そのイスラム教の友達にはっきりと言われた。アッラーを信じていなければ、コーランはただの文字の集大成よ、と。ほんと、ごもっともです。
私の存在を生まれる前から知って、成長ぶりを見届けてくださっているファミリー・モンクとでもいうのか、お上人さんは、知識だけの追求からは何の悟りも開けないぞ、と温かく笑いました。
ここ数カ月通い始めた家庭集会の牧師さんも、知るために信じるというのは、ちょっと違いますよ、と指摘してくれました。
本当に信じるって、簡単そうで難しい。
「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
知識や物質や思想など、あればあるほど見にくくなるもの。
何もない時の方が、よく見えるもの。
世の中、うまくできていると思います。


