死とその過程に対するさまざまな姿勢 | 弦弥勒

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GENMIROKU

死の否認ができなくなった人は、死に挑戦し、

それを克服しようとする。

猛スピードで高速道路を走っても事故死しなかった者

あるいは、ウクライナとロシアの戦争から、無事に

帰還できたものは、自分には死に対する免疫が

あると感じるだろう。

 

われわれは、味方の戦死者の十倍の敵を殺した、

こんなニュースが毎日のように流れるが、

これは私たちの願望の表れでなのではないだろうか

すなわち、全能と不死身を願う私たちの幼稚的な

願望を投影しているのではないだろうか

もし国民全体、社会全体が死を恐れ、死を認めないならば

破壊的な自衛手段に訴えざるをえない。

 

戦争、暴動、増加するいっぽうの殺人、

その他の犯罪は私たちが、受容と尊厳をもって死を直視

することができなくなった証拠かもしれない。

 

私たちは、個々の人間に立ち返り、一から出直して

自分自身の死について考え、むやみに恐れることなく

悲しいが避けることのできないこの出来事を

直視する術を学ばねばならない。

 

インドのガンジス河周辺では遺体を焼きそれを

河にそのまま流すことが現在も行われているが、

そうやって、人が死んだ姿の最後を、

誰もかれもが、見られるのは、私はいいことだと思う。

 

この日本では死は忌み嫌われ、病院でだれが死んだかも

わからず、死は身近に毎日起こっているのに

それを目にする機会は極めて少ない。

 

ここに現代の歪んだ社会の姿の根源があると

わたしは感じずにはいられない。

 

人はいつか死ぬんだ・・・。

それを子供にも見せ、

そこから感じ取る生命の神秘や生きることの大切さは

 

死を見ずしては得られないのだから・・・・。