こんばんは!
@Rico です。
2024大阪巡礼ねえさんぽ👣
→まだまだ、前半戦です❗️
少彦名神社さん✨から
テクテクと歩いて、次の場所へ向かうぞ!と
その途中で。。。
おや😲❓
と、思わず引き付けられた場所✨✨✨
御霊神社ごりょうじんじゃさん✨
この街中にも関わらず、
なんやら異質な空気感があることにビックリ‼️
うーーむ。。。
巡礼スケジュールはあまり決めてないから
気になった場所にはご挨拶したいよね
と。
手前に見えたご由緒板に目を遣ると
えええーーー‼️
なんと
御祭神の筆頭に
天照大神荒魂(瀬織津比売神)✨
とありますよ💧
うむ。
これは、なにかの繋がりかもだよね❓
(あの感動しきりの廣田神社さん✨を
思い出します)
ちなみに、
Wikipediaによれば
天照大神の荒魂としての瀬織津比売を
御祭神とする神社は、以下のとおり⬇️
→めっちゃ少ないよね
・
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・
てなワケで
ありがたくお参りさせていただきます🙏
先ず、目に入ったのが
大阪三十三所観音めぐり✨
▶️ 33番札所の碑
『よをてらす ほとけのしるしありければ
またともしびも きえぬなりけり』
えええーーー‼️
観音めぐりの札所✨
さらには、結願札所じゃないですか😲
→ぶっちゃけ、驚き‼️の連続で
まぁまぁ、ビックリしたわw
🌟「大阪三十三所観音めぐり」とは?
☑️江戸時代当時は、神仏習合の時代であり、御霊神社境内には神社とともに神宮寺「宝城寺」があり、十一面観音様が祀られていた。
☑️寛文年間(1661~1672)、大坂にも西国三十三ヶ所霊場めぐりにならい、「大坂三十三ヶ所観音参り」がつくられた。
☑️一番札所・太融寺から時計回りに、第三十三番札所である御霊神社までの寺社を詣でることで、西国三十三ヶ所を遍路した同じご利益があるとして、庶民の信仰を大いに集めた。
☑️このことは、近松門左衛門の「曽根崎心中」に当社が「大坂三十三ヶ所観音参り・三十三番札所」の霊場として書かれており、文学史上からも確認することができる。
☑️現在も、毎年文化の日の11月3日には、参拝者が大勢訪れます。
いろんな発見💡って
現場に来てみないと分からないものやね☝️
手水舎💦と狛犬さん✨
鳥居⛩️を失礼すると
中央には車祓所としての空間があるのやけど
これがまた、違う雰囲気があります🙏
拝殿✨
御祭神
天照大神荒魂(瀬織津比売神)✨
津布良彦神、津布良媛神✨
(田野の水の神、摂津国津村郷の産土神)
応神天皇(広幡八幡大神)✨
源正霊神(鎌倉権五郎景政公霊)✨
ご由緒
創祀は、平安時代に書かれた
『文徳天皇実録』の嘉祥三年(八五〇)に
八十嶋祭の祭場とされた圓神祠にはじまります。
この圓神祠こそが、御霊神社の始まりで、千年以上の歴史がうかがえます。
※ 平安時代から鎌倉時代に行われていた「八十嶋祭」の祭場とされた場所「圓江(つぶらえ)」に建てられた祠「圓神祠(つぶらしんし)」が当社の始まりです。
八十嶋祭の祭場とされた
圓神祠つぶらしんし❓❓❓
→ご由緒をしるには、この八十嶋祭✨が
わからないとやね☝️
ちろっと調べて記すと、、、
✅八十嶋祭とは、平安時代の記録に残る天皇の即位礼の大嘗祭の翌年行われた皇位継承儀礼の一つ
〈難波の地は、琵琶湖から流れてくる淀川と、大和から流れてくる大和川とが運んでくる土砂によって干潟ができあがりました。そして、その干潟に、島ができ、その島が繋がって、今日の大阪が出来上がったといいます。当時その干潟に形成された島は、大小多くの島という意味の八十嶋とよばれていました〉
✅百人一首のわたの原 八十嶋かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣船という参議・小野篁の歌が有名
✅その八十嶋の地は、圓江と呼ばれ、新しく天皇が即位され大嘗祭が行われた翌年、次の天皇の新しい時代を祈願する八十嶋の祭が執り行なわれていた場所でもある。
✅京都から難波にくだってきた陰陽師は、圓江の海岸に祭壇を設け、豊かなお供え物をし、女官である内侍が預かってきた天皇の御衣を何度か西の海に向かって打ち振り、ケガレを祓い落として、祭りが終わるとお供え物を海に投げ入れた。
✅その祭壇の場所に祠を建てたのが、圓神祠であると考えられている。
大嘗祭の翌年に、新たな天皇の御代を祈願する✨✨✨
その大事な儀礼が行われる祭祀の場✨
それが、御霊神社の創祀なのです🙏🙏🙏
さらに。
琵琶湖の流れと
大和川の流れが交わる場✨
それこそが
この大阪のこの地に在る❗️
(大和川の流れは、以前の奈良ねえさんぽ👣シリーズで、体験しとりますね✨)
沢瀉は、水田やため池などに自生する植物。
葉の形が矢じりに似ていることから
「勝軍草」とも呼ばれ、武人に愛されたのだそう❗️
てなワケで
御霊神社さんのいろいろは
まだまだ続きます。
では。
いつも、ありがとう^^
@Rico
幸せは自分のために
世界が平和であるために