離婚したい。
今すぐ離婚届突きつけたい。
家事は何もしない。金も稼いでこない。それなのに、態度だけは俺様。
そんなやつと生活するのは苦痛。

しかし、現実は難しい。
離婚調停に持っていくべきなんだろうか。

あいつが仕事しなすぎて、私は借金背負う羽目になり、任意整理の手続きも今月で終わる。
来月から返済の開始。

それ以外にも、支払いが遅れているものがある。

8月までには、あらかた整理できるように計画立ててるが、協力するわけではないから、実際どうなるか分からない。

どうやれば、この状態から脱出できるんだろう。

幼少期の記憶の中で、一番思い出したくない。封印しておきたい。事柄は、きっとこれなんだろうな。

昭和50年代の後半って、どこにでも雑木林や草むらがあってそれが整備されて公園や野球場?運動場?になって行った時期だと思うのね。

私の実家の目の前もそんなんで・・・。
草むらから野球場になる時に、周りをフェンスで囲ってはいたものの、通り道として開かれてた道があったから、子供たちは相変わらず、そこで遊んでた。

その日も私は、弟と遊んでた・・・・ハズだった。
正確には、弟はサッカーボールでリフティングやら壁を相手に蹴ってたんだと思うし、私は花摘んで冠とか作ってたんだと思う。

そこに、若い少年が近づいてきて・・・。
いたずらをされかけたんだと思う。
弟は、逃げて親を呼びに行こうとしたんだけど、「逃げたらどうなるか分からないぞ!」って脅され動くことすらできなかった。
私も動けなかった。。。

そしたら、通り道を近所のおばちゃんが自転車で通りかかって・・・。
異変にすぐに気づいてくれた。
そして、親のふりをして迎えに来てくれたから、未遂で・・・ たぶん、未遂で・・・。終わった。

そのまま、家に送ってくれたんだろうけど、私の記憶はそれ以降ない。
いや。ここまでの記憶もずっと失ってた。ここ数年で呼び戻されてしまった記憶だった。

それ以降、私は家の中でより一層遊ぶ子になり、外で遊んでも弟は絶対に私から離れなくなった。
そして、それは今も続いている。今も2人で電車に乗る時も必ず、人が触れないところに置いてくれる。

私は、弟の心にも深い傷を負わせちゃったんだろうな。

 

PTSDの治療なんて、そのころは今みたいに誰しもが知っていることではなかったから、子供ながらに「記憶を消す」っていう作業をしてたんだろうな。

そして、この記憶が男性から高圧的に来られることに対して恐怖でしかない所以なのかもしれない。

 


 

@コスメで1位になっているシャンプーとトリートメントをいただいた!!

 

 

このシャンプーをした後に、アワアワのまま少し時間を置くといいのね。

フローラルモスクの爽やかな香りがして、結構すきだな。

ボトルもシンプルでいい感じ☆

シャンプーした後の爽快感もあって、これからの夏の季節にいいかも。

ただ、このすっきり感は、カラーリングをしている私には、色落ちが早そうな気がするから、様子見て使おう!

 

 

トリートメントは、しっとりとした仕上がりになって、乾かしても広がらないぞ。

こちらもボトルがシンプルで、よいなー。

 

ただ、しいていうなら、どっちがどっちかわからなくなるから、ちゃんと確認しないとダメだわw

 

いまは、Dシリーズもあるみたいだから、こっちも気になるなー。

 

 

今まで公言してこなかった私の過去。最近、改めて向き直さないといけないな~と思い始めたので、形に残してみようと思います。ただ、確実に不定期になると思うし、途中で書けなくなるかもしれない。だけど、きちんと見つめないと次に進めないと思うので・・・。

○幼少期の記憶

私が持ってる記憶の中で、一番小さいころのものは3歳くらいだと思う。その記憶がいいものならよかったんだけど・・・、私は、いい記憶ではなかった。
ひとつは、あれは、私が産まれた産院の駐車場。私は、母の足にしがみついて泣いてる母を不安な気持ちで見つめてた。なぜ泣いてたのか。何が起きたのか分からないけど、泣いてた記憶だけがある。

その時思ったことは、「ママを泣かせてはいけない」ということだった。

次に、記憶があるのは裁判所の記憶。母は、20歳までの間に両親と祖母を亡くしている。なので、親戚のおばちゃんが育ての母で過ごしてた。
だから、私はこの育ての母のことを、今も本当の祖母のように慕っていて心配でもある。
おばあちゃんと呼ばせることを拒んだため、いまだに私は「おばちゃん」と呼んでるけど、祖母であると思ってる。

複雑なんだけど、血のつながった兄弟は母にはいない。
けど、養女のお姉さんはいる。このお姉さんが、すっごいいい人であったら話しは変わってきたんだろうけど・・・、いろいろと問題がある人で・・・。

亡くなってしまった祖母は、死産・流産を繰り返していてこれ以上子供は望めないと思われたようで、昭和20年代に近所に住んでいるおうちから養女のお姉さんをもらったようだ。
この話も、母は話したがらないから、「きちんと教えてほしい」と。お願いして、おばちゃん(育ての母)から教えてもらった。

と前置きはさておき、亡くなった祖父母はある程度資産を持っていたことが問題を大きくしてしまったのは言うまでもないんだけど、遺産相続問題が勃発し裁判沙汰まで発展した。
幼稚園生の私でも分かるくらい、裁判所の冷たい空気・張りつめた空気を感じることができた。
そして、今も私はハッキリと覚えている。

毎回、裁判所までついて行っていたわけではないから、母が裁判所に行ってるほとんどの時は、おばちゃんの家に預けられて遊ばされてもらっていた。親戚はたくさんいたから、おばちゃんの家に行くと、私たち兄弟が不憫に思ったのか親戚のおじちゃん・おばちゃんがたくさん顔を出してくれた。
それが、嬉しくもあり辛くもあった。

その時思ったことは、「何か悪いことしてるのかな?わたし」だった。

裁判が終結するまで、仏壇も遺影もすべて人質のように養女のお姉さんに取り上げられて、母の手元には何もなかった。母の手元に戻ってきたのは私が小5のころだったと思う。
暑い夏に、取りに行ったときに、いろいろ言われたような気がするけど覚えてない。仏壇が返ってきてから次の法事の時に合って以来、それ以降、この養女のお姉さんとは会っていない。
そして、お墓参りにも一度も来ていないらしい。金の切れ目が縁の切れ目とはまさにこのことなのだろう。

小学生にして、お金は怖いと思った。

そして、ここから数十年後、私はやはりお金に悩むことになる。