小説『星空はいつも』(7) | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

     七

 

 「黄道というものが、夜空の中でどういう位置に来るか、それをしっかりつかむためには、天球儀で説明するのがよさそうですね」

 そう言いながら綿貫さんは席を立つと、隣の部屋から透明なプラスティックでできた天球儀を持って来た。

 「いいですか、この中心にある小さな地球儀のところに自分がいると考えてください。本当は地球のほうが南極と北極を貫く線を軸にして西から東に自転してるわけですけど、われわれが夜空を見ると、星をちりばめた空のほうが同じ線を軸にして東から西に回転して見えるわけです。その回転のいちばん大きくなる大円のところが、天の赤道ですけど、地球の公転面はその面に対しては二十三度半傾いてるんです。その二十三度半傾いた大円の上を、地球から見ると逆に太陽が一年かかって動いてるように見えるわけで、これが黄道なわけです。水星、金星、火星、木星、土星みたいな惑星は、だいたいこの面に沿って動いてますから、夜空の中ではこの黄道の近くのどこかに見えることになります。そこでいま、黄道に注目したまま夜空の日周運動をシミュレートして、東から西へと回してみますよ。さあ、ようく見てくださいよ。黄道はどう回りますか?」

 「あっ、ほんとだ。単純に東から西じゃないんですね」

 黄色い線で描かれた天球儀の黄道は、軸に対して斜めな輪をくっつけたどこかの広告塔の回転のように、うねうねと波打つ姿で回転した。

 「いやあ、簡単なようでいてむずかしいんですね」私はちょっと自信喪失気味になってしまった。

 「そこでですよ、冬至のころなんかは、太陽自身は黄道上のこういう南に偏った場所にあるから、真東より南に偏った場所から出て、低い空を通って、真西よりも南に沈む。でも、その季節の夜中に見える太陽系の天体はずっと高い場所を通ります。黄道のうち太陽と正反対の部分が、その季節には夜中に空のこういう高い場所に来ることになるために、惑星や月は昼に太陽が通った道とは別の道を通ることになるんです。冬の満月が澄み透って美しいのも、これが原因なんですよ」

 「なるほど。満月の高さも季節によって違うんだ」と畑中翔子が感心した。

 「それと反対に、夏至のころの太陽は黄道上のこういう北に偏った場所にあるから高い空を通るけれど、その季節の夜中に見える太陽系の天体は逆に南の低い空を通ることになるんです。だから夏の満月っていうのは赤っぽくてくすんでることが多いんですよ」

 言われてみれば確かにこれまでの私も冬の満月と夏の満月は違うという印象を抱いていた。空気の湿り気の具合でそうなるのかぐらいに思っていたのだが、軌道そのものが違うのが大きな原因だったのだ。

 「なるほど、やっぱり理数系のことがわかってないと、星はうまく観測できないんですねえ」私はあらためて自分の予備知識の不足を思い知らされてしまった。

 「いや、理数系というほどのことはありませんよ。この天球儀の動き程度のことをイメージとして心に描ける必要があるというだけで、別に計算も何も要りません」

 「でも、こういうのを追跡するためには、望遠鏡にも仕掛けが必要なわけでしょ?」

 「ああ、おっしゃりたいのは赤道儀という意味ね」

 そう言いながら、綿貫さんは本館の一階の片隅に置いてあった小型の天体望遠鏡を指さした。

 「おっしゃるとおり、天体の日周運動を追尾するための手段として、あの赤道儀と呼ばれる架台――つまり、望遠鏡支持装置――があるんです。ちょっと動かしてみましょうか」

 そう言って席を立つと、綿貫さんは私たち二人を促して、その小型望遠鏡の前まで連れて行った。

 「いいですか、極軸と呼ばれるこの軸を北極星の方向に合わせます。すると、この線がさっきの天球儀で見た地球の南極と北極を貫く地軸の線と平行になるわけです。そうしといたうえで、例えば天の赤道より三十度北に偏った位置にある天体、――専門用語では赤緯プラス三十度といいますが――、その位置にある天体を追尾しようと思えば、望遠鏡の筒の角度を極軸に対して六十度傾けたこの角度にするんです。そうしといて極軸の周りに望遠鏡をこう回転させる。実際は一時間に十五度というきわめてゆっくりした速度で回せばいいわけですが、そうすると、望遠鏡の同じ視野の中に同じ天体をずっととらえたまま追尾できるわけです。この赤道儀は手動式ですけど、モーターを使った電動式のもあって、それだと時計どおりに正確に回転するから、天体を追尾しながら写真撮影するときには、それを使うんです」

 「でも、そうすると、さっきの黄道に沿って望遠鏡を動かすためには、赤道儀の回転では逆にダメということになりませんか?」

 「そこですよ。いいところに気づきましたね。そうなんですよ。だから、黄道に沿ってとりあえず自分の眼でサーチをしようというような場合には、赤道儀なんかを使ってもかえって宝の持ち腐れになるわけで、もっと簡単な経緯台という支持装置のほうがベターなんです」

 「経緯台はここにはないんですか?」と畑中翔子。

 「ああ、ここには置いてありませんが、たとえばなしで言うなら、水平方向三百六十度回転する中華料理のテーブルみたいなものの上に望遠鏡を設置して、その仰角を零度から九十度まで上げ下げすると考えてみてください。そうすると、空全体のどこでも好きな場所に望遠鏡を向けることができるでしょ?」

 私は、おいしそうなエビチリやマーボ豆腐の載った中華料理の回転テーブルの真ん中に望遠鏡が据えつけられている姿を想像して、思わず唾を飲み込みながら笑ってしまった。

 「天体望遠鏡で値段的にいちばん安いのは、ドブソニアン望遠鏡って呼ばれる種類のものなんです。それは、光学系はニュートン式の反射望遠鏡を採用して、架台のほうは今言った経緯台のいちばん簡単なやつを採用したものなんです」

 「反射望遠鏡って、レンズの代わりに鏡を使うんでしょ? レンズの望遠鏡は値段が高いんですか?」と畑中翔子。

 「高い安いという以前に、対物レンズを使った屈折望遠鏡というのは、大口径には向かないんですよ。光は波長が違うと屈折率が違うんで、それを色収差と言いますけど、レンズからその影響を完全に除去するのはむずかしいんですよ」

 「で、結論として、私たちみたいな初心者が星をみつけたいと思ったら、何から始めたらいいんですか?」と私は先を急いだ。

 「それはね、まず、見つけるとか何とかいう以前に、星空に親しむ必要がありますよ。最初はまあ、ドブソニアンを自分で買うか、人に貸してもらうかして、天球儀や星図と見比べながら、いま自分が望遠鏡を向けてる場所が何座の方向で、視野に入っている明るい星が何星かということを、すぐに判別できるようになること、それが先決ですね」

 「ほら、だから言ったでしょ。何ごとにもステップというものがあるのよ」と横から畑中翔子が私をつついた。

 「まず、星を観るときの常識として、星図と夜空を引き比べる際には赤いセロファンを張った懐中電灯を使うとか、守らなければならない事項がいくつかあるんですけど、そういうことは実地に指導してもらったほうがいいですね。ここで毎週三日やってる観望会に参加なされば、ご指導しますよ」

 あいにくその日は観望会のある日ではなかった。私たちは土曜の午後八時の観望会を予約して、その日はプラネタリウムの投影を見せてもらうだけで帰ることにした。

 プラネタリウムは県庁所在都市のコミュニティーセンターにあるのに比べるとずっと小さいもので、座席から星の投影される壁までの距離が二、三メートルしかないため、本物の星空の下にいるという臨場感はいまひとつだったが、綿貫さんの解説は一点の淀みもない流暢なものだった。それまで私たちと会話調で話していた綿貫さんが、解説員の立場になると一転して何十人もの観客を相手にするような客観的な語り口になるのは、お客が私たち二人しかいないだけに、ちょっと珍妙でもあった。でも、それがまたプロフェッショナルのいいところでもあるのだろう。

 最後に本館の二階と三階に展示してある天体写真や資料を見学させてもらい、例の関取の記念額も見せてもらった。日本の城郭建築を模してある本館は本物の木造で、窓のすぐ下まで迫る下の階の屋根瓦も本物の瓦だ。プラネタリウムの暗い空間から出てきたばかりの私の目には、その黒さえかえって真っ白に見えるほど、外の景色はまぶしかった。

 建物は上階ほど狭くなっているから、三階では窓から窓へと筒抜けに通る風がさわやかだ。五月の風は、直毛を背中まで伸ばしている私の髪を、いくぶん持ち上げ加減にふくらませながら、梳くように通り抜けていった。

 「やっぱり、もっと研究が必要なのよ」

 下の駐車場への道すがら、車のキーを取り出してしきりにもてあそびながら、畑中翔子は私の浅はかさを戒めるような口調で言った。キーに結びつけてある長さ二十センチほどのゴム紐の輪は、彼女がキーに遠心力をかけて振り回すたびに人差し指にからみつき、逆に回すたびにほどけてはまたすぐ反対回りにからみつくことをくりかえしていた。

 踊るキーとゴム紐の背景は、ただちに二、三百メートル向こうの杉木立の山肌で、枝ごとに丸っこくまとまった葉が織りなす粒餡のお菓子のような模様で埋められていた。近すぎるものと遠すぎるものと、どっちにも焦点が合わないまま、私はただぼんやりと交互に視線を配っていた。