さきほどまで激しい雨の音がしました
またこれから もっと激しい雨がくるようです
涼しすぎる気温にどきどきします
新潮文庫
59のエッセイ集です
日常のほんの小さなことから書き出して
少しずつ自分の思いを味わい深く書いてあります
ときおり ファンタジーかと思われるような 川上氏の日常に 自分の気持ちもゆらゆらしました
「こうだ!」「こうしよう!」という激しい結末はなく やんわりと けれども 美しく温かい余韻を残して終わっていくところがいいなあとか
独特のひらがな文体に擬態語が出てくると ますます楽しくなってきます
たとえば
夜はするすると更けていった。
電車は鉄橋を渡る。たたんたたんと音をたてながら。
こんな感じで…
エッセイのほとんどに本の話が出てきます
読書が何より好きなこと(作家さんだから当たり前ですが)で その内容の1部を分かりやすく書きながら 自分の内面を深く見つめていく姿に好感を持てました
自分の内面とは➰
こんな感じです
織田作之助 『アド・バルーン』を読んで
人の不幸や幸福を勝手に分類していたのだろう、おそらく以前の私は。その人の奥底のことも知らず。表面ばかりを眺めて。そう気がついて、毛布にくるまったまま、あはあはと笑った。自分が恥ずかしくて、自分の来し方が恥ずかしくて、あはあはと笑った。
色川武大 『怪しい来客簿』を読んで
赤い糸にしてもゴムにしても、1度つながってしまったものは切ろうと思っても切れないように思える、ということがきもちわるいのだ。まっしぐらにつながりあっているらしいことが、いやなのだ。いくらふだんは何げなくしていても、ひょっとした拍子に、そのつながりが抜きさしならないものになってしまうかもしれない。それが、たまらなく、怖かったのだ。
いじめられていた少女時代を回想しての文章です
保坂和志 『生きる歓び』
橋本 治 『生きる歓び』を読んで
『生きる歓び』という題の本を次々に買ってしまう自分は、何を求めているんだろう。小説だけでなく、自分の気持ちの読解も不得意なので、よくわからない。
生きることは歓びなのだろうか。ほんとうにそうなのだろうか。それも知らない。そうだよ、生きることは歓びなんだよと、声をそろえて言ってしまいそうになる。でも、きちんと実感していないので、言わない。いつかしんじつ実感できるときがくるまで、大事に、とっておくことにする。
ポーラ文化研究所編
『ぬっとあったものと、ぬっとあるもの』を読んで
私たちの生活の中にも、ある日突然「ぬっとしたもの」があらわれいでることがある。「ぬっとしたもの」は、不幸なできごとかもしれない。思いがけない拾いものかもしれない。予想もしなかった人との出会いかもしれない。唐突に、日常にあらわれいでる「何か」。
図書館で本屋さんで家で
川上氏は 今も本を読んでみえるような気がしてきます
今まで言ったさよならの中でいちばんしみじみしたさよならはどのさよならだったかを決める(決まったら心の中でゆっくりさよならをとなえる)
最後のエッセイの最後の文章です
1つひとつのことに丁寧に生きている人の言葉は 優しくて哀しいです
最後まで読んでくださりありがとうございます
葉一枚一枚ずつに緑雨かな
アマンバ
先日 「翠雨」という言葉をブロガーさんに教わりました
俳句に使いたかったのですが 歳時記にはありませんでした
残念
だから 心で「翠雨」に置き換えています