4月1日 速秋津姫様の祈りで降りた神言葉



(午前の神言葉)



時計らい給いて、神祈りする全ての皆々様方にお伝えいたしまする。

この日、迎えまするは、「時の運」。

全てのこと、計らい給いて、この日を迎えますること、心より感謝申し上げ奉り申す。


己の身を、削ぎ給えと、われ申します。


想いはばからず、健康足らずという日々が続くのであればこそ、「心ここに在らず」と神は申しまする。

これ、己の心の整いの足らなさ一魂にて、「自らの身を削ぎ給え!」とわれ申します。


想いはばからず、この世を生きるということは、互いの想いを掛け合い育み合う中で育つもの。

そこに想いを積み上げさえすれば良いというものでは無く、事おろそかにならぬよう、常に、身を削ぎ給えと申します。


事はばからず、焦らずと共に、心を一新するものあるならば、互いを信じ、神を信ずるように、わが身を信じ給えと申します。

心愚かに整わずは、それ愚かな証となりて、そわそわ惑い心、急がし心、ごまかし心、勇み心となりまして、行く末には「うつむきかけた心」となりましょう。


おのずの心禊ぎ給いて、焦らずに心を決めたならば、それ揺り動かさずに、目の前にあること一心不乱に心を集中させ、出来ることを自らの精一杯の力を出しながらも、全体を見定める心を揺り動かさずに、自らの立つ位置が、「ここで良いか?」と問い給えて、心疎かに言葉を吐くのではなく、想い携え給いて、支え合う仲間や身の回りの人達の事を想い、常に、「自らの立ち位置」を柔軟に変えれるよう、心を柔軟にしたまえと申します。


我ここに在らずんば、それ神なりきとなりしこと、

それ神と一体になれば我が無くなるという意味なればこそ、「神」という目線を持ちて世をはばからずんば、皆の幸せを願い、自ら心一新に生き給え!と我申します。


人を問う心、自らを問う心、愚かでございまする。

そのあなたを見守りまする神の想いと離れているからこそ、自らの我の視点を変えず、立ち位置を変えられず、苦しむものでございまする。


常に人は、「我がまま」でございまする。

自分の思いしか言わぬもの。

だからこそ、その想いを束ねられるような大きな心を作り上げる為にも、日々、「自らを削ぎ給え!」と申します。


想い大きかな・・・高きかな・・・心在る者たちへ告ぐ!


この世を救うは、たれぞ!

この世を救うはでは無く、神の心を持ち合わせる人の心と言葉と行動なりて、この世を作り上げるものなり!

その過程において、うまく行く時もあれば、行かぬ時もあるでしょう。


しかしながら、その時の経験こそが、次へ進む大切な学びだからこそ、目の前の問題や苦難苦悩から逃れる事を考えるよりもよりも、より大きな愛と幸せを育む為に、また自らがその喜びを感ずるために、どう自らの心や想いを柔軟にするべきかを考えなさい。


この世にあるもの起きるもの、全て「人の心」で出来ているものだからこそ、心大きく目を開き給いて、この世を幸せにすると極めたならばこそ、己の心を禊ぎ給いて計らい給いて、心に癒しと安らぎを与え給えと我申します。


「時すでに遅し」とは、まだ変わる可能性が在る時の言葉。

本当に駄目ならば、言葉はありませぬ。


だからこそ焦らずに、日々の神行に日常の行い全てにおいて、心を込めて過ごしなさいよ。

われと共に拝みをする皆々様に、この愛と浄化の光を送り届けましょう。