「 阿諏訪、
阿諏訪一族を知れ。

さすれば、
すべてを知ることが叶う。


まだ眠っていたうちに

内生る神

はっきりとそう告げた。

















諏訪と相武寒川・武蔵横見の繋がり


吉田大洋氏の
『竜神よ、我に来たれ!』には、
寒川神社創建に関する
言い伝えが記されています。


諏訪神家の守屋という青年から
吉田大洋氏が聞いた話に、

守屋青年の祖母の情報として、
天孫族の圧迫を受けた諏訪神家の一部は、
相模国に逃れて定住し、

寒川神社を建てて
建御名方命を祀ったと言います。


吉田大洋氏が聞いた話を
裏付ける証拠があります。



寒川神社は、現在
高座郡寒川町にありますが、

隣接する香川地区と寒川地区には、
阿諏訪という姓を名乗る人が住んでいて、

全国の60%以上の阿諏訪姓が
寒川周辺に住んでいます。


諏訪の諏訪氏の系譜に、
足羽(あすわ)氏があって、

阿諏訪(あすわ)という一族が
諏訪と寒川に認められます。

建御名方命の五世孫、
あるいは子に伊豆早雄命があって、

その12世孫に、
足羽盛方という名が見られます。



寒川神社は、
相武国造と武蔵国造の祖とされる
伊勢津彦命とも関係していることを、
以下の記事に記載しました。

http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/14346306.html


武蔵国造と相武国造の祖は共に、
伊勢津彦命で、
共に大国主の子を祖としています。

守屋氏も、古代氏族系譜集成によると、
大国主を祖とする一族であったことが分かり、
両者が近しい関係にあることが分かります。



寒川神社の周辺に
諏訪から逃れてきた神氏は、

恐らく武蔵方面に移ったと
考えられます。


武蔵国に移った人々は、
入間郡に最初に入って、

その後、横見郡に移った事が、
吉見神社(式内横見神社)の
古文書に残っています。


入間郡には、
出雲伊波比神社があって
武蔵国造族の祖大名持命を祀っています。


同様に、横見郡には
伊波比神社が鎮座しています。


また入間には
阿諏訪川と阿諏訪という地名が残っていて、

相模から武蔵へ移住した人々の
足跡を確認する事が出来ます。


阿諏訪川の上流には
越上山(おかみ山)があって、
頂上に近い場所に
諏訪神社が鎮座しています。





また、入間に入った一族は、
横見郡に移った訳ですが、

そこにも阿諏訪という地名と

諏訪神社が残っています。



現在、旧横見郡であった
埼玉県大里郡吉見村箕輪字阿諏訪野にあった諏訪神社から、
船木神社に合祀されています。


明治43年2月1日に合祀された事が
大里郡神社誌に記載されています。