日本における結婚式の歴史


日本神話の国産み

『古事記』、『日本書紀』一書第一などの日本神話における伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)の国生み・神生み神話ではオノゴロ島に天の御柱を建て、
イザナギが「私と貴方と、この天之御柱を廻って結婚しましょう。貴方は右から廻り、私は左から廻り逢いましょう」という約束をし、
出会ったところで「なんとまあ、かわいい娘だろう」「ほんとにまあ、いとしい方ですこと」と呼び合って結ばれたという描写があり、
結婚式の起源ともいわれる[3]。

如此應而伊邪那岐又詔 既此,吾倆行繞天之御柱 逢而為婚 伊邪那岐詔約其妹 曰 汝者自右迴逢 吾者自右繞逢 如此依約繞行 方所逢之時 伊邪那美先言 妍哉 汝壯俊男焉 伊邪那岐續言 妍哉 汝麗美人焉 -- 『古事記』
即將巡天柱 約束曰 妹自左巡 吾當右巡 既而分巡相遇 陰神乃先唱曰 妍哉 可愛少男歟 陽神後和之曰 妍哉 可愛少女歟 遂為夫婦 -- 『日本書紀』一書第一


平安時代

通い婚の時代での帝(天皇)においては、
女御と家族が入った宮中の殿舎に、
天皇が三夜しのんだ後発見されたという「露顕(露見)」(ところあらわし)という宴をおこなう。
これが現在の披露宴に該当する。

民間においても、
平安期の結婚は男性が女性の下に三夜続けて通う形式であるが、
女性の家ではその間訪れる男性と従者を接待する。

3日目には露顕(ところあらわし)という披露宴が行われ、
新郎新婦が披露される。

列席者は妻側の関係者のみに限られる[4]。


室町時代

和泉流の狂言『舟渡婿』では通い婚が「露見」した後に嫁と舅の家へ鯛などの魚と酒を持参し祝いをするという式を行うことが前提になっている。


安土桃山時代

1563年(永禄6年)に来日し、
安土桃山時代の日本の記録を残したルイス・フロイスの書簡によれば、
「日本では結婚式をおこなわない」と記述されている。

しかし、
この時代も有力な武家の婚礼は盛大に行われた。[5]

また、高台寺では当時、
下級武士だった豊臣秀吉とねねの結婚について、
「土間に藁を引き、その上に薄い敷物を敷いただけのささやかな祝言」を挙げたという記録が残るなど[6]、
当然この時代においても身分によらず婚姻に際しての儀式、
すなわち結婚式は行われていた。


江戸時代~明治



江戸時代の結婚式のイラスト(イサーク・ティチング画)



『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、
1867年(慶応3年)出版

婚席に神々が臨在するという考えは中世の床飾りから見られ、
江戸中期の貞丈雑記に明文化された。

新郎の自宅に身内の者が集まり、
高砂の尉と姥の掛け軸を床の間に掛け、
鶴亀の置物を飾った島台を置き、
その前で盃事をして結婚式をする、
いわゆる祝言が行われた。

家の床の間は神様が居るとされる神聖な場所で、
掛け軸や島台も神さまの拠り所でもあるとされ、
当時から結婚式は宗教と密接な関係があった。

旧暦の10月は「神無月」であったので、
結婚式はこの月を避けて行われた。

民俗学者の柳田國男著の『明治大正史』及び『婚姻の話・定本柳田國男集15』によると、
少なくとも幕末から明治初期までの庶民による結婚式は、
明治以降に確定した神前式の形式とは同じではなく、
自宅を中心とし、
婿が嫁方の実家でしばらくの間生活するという「婿入り婚」と呼ばれる形式であったとしている。

この際、
新婚生活の初日に嫁方の家で祝いの席がもうけられることがあったが、
夜の五つ(現在で言うところの21時頃)から行われることが多かったという。

同じく柳田によると、
江戸時代であっても、
同じ村内の者同士が結婚する場合には祝言が行われないか、
あるいは簡素なものであったが、
村外の者と結婚する例が増えてくるに従って形式が複雑化し、
神前式に近いかたちになっていた、と述べる。

また、庶民の結婚式の場合は、
神職が吟ずる祝詞より、
郷土歌や民謡、俗謡を歌うことが多かったとされる。

祝詞であっても、
現代の神前式のように「天津祝詞」が吟ずられるようになったのは明治以降である。


吉原遊郭

吉原遊廓で遊女と馴染みの客が熊野神社(熊野三山)の熊野誓紙(熊野牛王符)3枚に2人の結婚を誓う旨を記載し1枚を神社に収めるという擬似的結婚がなされたという。


近・現代の変遷



北白川宮永久王・祥子妃の結婚式(1935年(昭和10年)4月)

上記のごとく以前は日本では、
少なくとも庶民の間では、
結婚式は自宅で行うことが多かった。

神社で行う「神前結婚式」はそれ以前にも行われていた[7]ものの、
数としてはごく少数であった。

1885年(明治18年)、
元日蓮宗僧侶であった田中智學によって創設された「国柱会」の前身「立正安国会」において日本で最初の正式な結婚式(本化正婚式)の規定が定められた[8]。

田中智学の思想「仏教夫婦論」により、
明治維新以降の日本において夫婦の結婚を制度化することは国家の近代化に不可欠であるとされた。

この立正安国会による仏前結婚式が、
仏教史上はじめての正式な結婚式である。

1900年(明治33年)5月10日に皇太子嘉仁親王と九条節子公爵令嬢が結婚(後の大正天皇・貞明皇后)。

皇族の慣例通り、
正装した男女が、宮中三殿に拝礼し、
神の前で夫婦の誓いを立てる形式の結婚の儀である。

すると市民から神前での挙式を望む声が上がり、
神宮奉斎会(現在の東京大神宮)が結婚の儀を模した形で「神前式」の儀式を新たに創設。
国民の間に定着していった。

戦後になり、
高度経済成長期に結婚式場による「キリスト教式」も流行するようになった。


近年~最近の傾向

近年日本では、宗教にかかわりなく、
教会式、神前式、人前(じんぜん)式、仏前式などの結婚式が自由に選択されている。

通常儀式の後披露宴が行なわれるため、
結婚式を行う場所も出席者の交通の利便性がよく大広間が利用できるホテルの利用者が多く、
次に多いのが結婚式場である。

このホテルや結婚式場では、
式場側で結婚式に関するほとんど全ての用意を行い華やかな演出まで行ってくれるので、
式を主催する側には大変便利になっている。

これらの式場には神社や寺院、
キリスト教会の出張先として別室が設けられ、
主に両家の親族が入って式が執り行われる。

その後併設した宴会場で盛大な披露宴を行うことになる。

宴会場を利用した場合、
いずれにしても多額の費用が掛かる為、
親類縁者だけの小規模な結婚式もある。

また、
近年ではハウスウェディングと称して一軒家を借り切って親族や友人など身近な者を招待し[9]、
パーティー形式の結婚式・披露宴を行うこともある。


* Wikipediaより一部抜粋、転載 *



( 画像はお借りいたしましたぺこり )