西南の空に

空海さんが涙を流しながら顕れ

あるお役目を授けていかれた故

緊急的に

シェアさせていただきます四つ葉m(__)m四つ葉



最初に日本神道の神々が、
この日本という土地を整えられ
天照大神、天之御中主と呼ばれる方がたが
この日本という国を神の国日本にするために
あの高い、
誇り高すぎるほどまでに誇り高いあの気持ちの中で
この日本を整えられてきたという、
あの誇り高さはわかるであろう。


それはもう、
彼らがこの日本ということを、国を預かった段階で
次に仏陀が下生され、この日本、自分たちが預かったこの国から
最終的な今日の世界計画が行われる
光の発信源となるということを言い渡されて
中央から彼らが降りて行って
この土地というものを、
日本という国を整えてこられたからこそ
彼らがあれはどの誇りの高さをもって
この神国、神の国日本という大和の地を愛して
誇りに思われているのである。


長い、長い時を、
我々中央官庁のほうから、あの方がたは預かられて
この日本という国を育んでこられた。

そして、その中において、あまりに長かったがゆえに
この日本という国をひじょうに特別に
また愛してこられたということはあるけれども
なぜそのようになったかということ。

どれだけ他のローカル神と呼ばれている
地域神と呼ばれている方たちに比べると
はるかに霊格の高い方がたが、この日本神道には多いのである。


それはご存じでありましょう。

なぜこのようなことになったか。

長い、長い時を、中央から降りて行った方が
この日本という国を、誇りをもって預かってきたということ。

最終的にこの地球を大浄化していく計画の中の、発信元として
この日本という国が、
最初から白羽の矢を当てられて用意されてきたから
こそ、彼らはそれはどの使命感の中で
必死にこの日本の国を素晴らしい国にするために
命をかけてこられたのである。

そのことを思うのならば、日本神道の神々に心から敬意を表したいと思う。

「よくぞこのような国土にするために用意していただいたものである」と。


ただ、日本の神々だけではなくて、
やはりこのような地になるためには
中央のほうからさまざまな宗教を導入し
このように変えて、ということで、竜馬たちも中央から出てきた者ですし
そのような世界計画で一助として
日本の国の計画のために我々も出てきている。

聖徳太子と呼ばれているこの間出てきた方にしても
シュヴァンツェルという方ですけれども、
あの方も来られているという
私たちと出所は同じであるということ。


あなたにおいても、この者においても同じなのです。

日本だけにしか出ていないという方もまれにはおられるけれども
でもほとんどが世界を股にかけて、
こういう法が流布されてくる時には
その使命を果たすために、異国の地に降りて来るという
そのような立場にあるあなた方であるということ。


だから、まあ多くの者がそうなのです。

だからこそ、
ひとつの国だけにとか、地域神と呼ばれている方においては
日本の国に在来することが長いけれども、
他の魂においてはだいたいが
もういろんな国を転々としていくことによって
自分の魂の経験というものを積んで、
魂の経験知というものを広げていこう
キャパシティというものを広げていこうという
そのようなことの修行というのが課題になっておりますから
どの者においてもいろんな国に生まれて
いろんな宗教のもとに生まれているということ。

そのことは、どの者に語り伝えたとしても
だいたい共通理念としてあるのであなた方は堂々とおっしゃればいいと思う。


だから、そのような日本の流れというもの
人びとの心の変遷ということを今回お話ししました。

大事なものというものはいくつもないのです。

そして、今の時だからこそこれが明かされるということ。

そして、自分たちが何者であるかということ。

神の実体は何であったかということを今明かされているでしょう。

そのようなことをほんとうにわかることによって
地球人類というものがほんとうにひとつの神の
地球神ともに一体となったとき、
初めてそこをもって宇宙連盟という
その宇宙の外の方たちに対する自分の認識というもの
宇宙連盟の中における地球人というもの
そのような認識に上がっていくのです。


一度に言ってもわからないかもしれない。

このような段階にいる地球人においては
まず心の中において神の子であるということ。

そして、永遠の転生の中で、
もう宗教によりいがみ合うのは
ひじょうに、「やめなさい」ではなく、
「ナンセンス」なことである。

やる気もなくさせる。


愛する兄弟を、愛する自分の同胞たちを殺し合うことほど
愚かなことはないだろうという認識にもっていけてこそ
彼らの手から銃を捨てさせることができるのです。

そこにおいて、
いかなる強制力も支配欲も、恐怖心があっても
彼らはますます怖くて、その銃を離すことはないでしょう。

でも、そのようなことからもう離れて、人びとの心に愛豊かに
そしてこの肉体生命だけがすべてではないので
この人生だけが、
一回きりの人生だけがすべてではないのだということがほんとうにわかれば、
あなたが専門としておられる医学の世界においても
大いなる革命が起きてくるはずなのです。


人にはそれぞれの寿命においての限界があるのです。

それは望む、望まないではなく
本人自らがそのように設定してきているということ。

最初から与えられた寿命の中において
後半病気でとか、そういうので亡くなるけれども
そのようなものがちゃんと
自分で自己設定してきた時限爆弾のようなものが
病気という形において自然に爆発して
その肉体生命を終わりにさせるということ。


人においては幸せな時に死にたいという者もいるのです。

「やるべきことをやり終わったなら
いつまでもこの不自由な三次元にいたくない。

早く向こうに帰っていきたい」と
逆に「前回よりまた長く生きていると魂を落とすから
いちばん子どもの時の、いちばんいいところだけをやって
それで一度こちらに帰って来て、
その霊格を上げていきたい」とか
さまざまな計画があるのです。


だから、けっして肉体だけですべて関わり合って執着するのではない。

それはすべてのことに言えていくと思う。

そういうふうになるのならば、
いたずらな肉体に対する執着がなくなれば
お金とか、
このような身を飾るものに対するいたずらな執着というものも
なくなっていくことでしょう。


価値観も大いに変わってくるはずだし
魂が永遠で、
今回の人生における計画というものを
もっとみんながほんとうの意昧でのパーニャパラミタを
神性を開く時がくるのです。

同通できる時がくるのです。

まああなた方は閉じさせているかもしれない、危険だから。

だけども、もっともっとそれを開いていく。

それこそがほんとうの修行の段階にきた時に
人びとは肉体を持って生きながら
このわずかな、この人生の中で何を今回学ぶべきであるか、
それは個人的な問題として
人びとが教育システムの中で自分自身に問いかけるような
そのようなシステムが出てくるはずなのです。

それであってそ教育のほんとうの意味をなすのです。


自分が今世、
何を学ぶために、習得するために
使命を果たすために出てきたのか。

そのために教育を受け、そのための手段として技術を学んでいきたい。

そうやって自分自らが選び取っていくような
そのような教育システムというのが現れてくることでしょう。

それをもってこそ、人びとが自分たちの個性を発現し
ユートピアの中で、一人ひとりが自分の命を輝かすことによって
貢献できるという道を開くのです。


同じである必要はないという、
同じであることは全く無意味であるということ。

自分自らの命を輝かすということ。

お役に立つということ。

そのことを、喜びをもって、人びとが人生の中で生きるように
子どもの頃から教育されてきたのならば
今日のようなことは何もなくなるでしょう。

だから、
今の教育のひじょうに間違ったところからくるあつれきのようなものが
あぶくのようなものが、いっぱい上がっていますが
そのひとつひとつにキーキー、キーキーすることよりも
もっと根源的なところ、
根源的なところで出世していったのならば
そのような人生の中において
今のようなものはなくなっていくことでしょう。


金太郎飴のような一律な人間たちをつくり、
ひとつのベクトルの中で
ひとつの方向性の中だけの価値観で人びとを、優劣を決めていく。

そのようなことがそのうち
もうナンセンスであったという時代がくることでしょう。


七色の個性、七色だけではなく、一人ひとりすべての者たちにおいて
かけがえのない個性と使命と、
愛というものを
愛の表現媒体としての役割というものを神はお与えになっています。

そのものを本来が発現させていくための教育、それは人生論であり
それが子どもの頃から、
子どもたちに語り伝えていける社会がつくられてこそ
教育システムにおいても、社会の安定、平和ということも
イデオロギーということも、文学においても
すべてにおいて人びとの心の中に
神の国というものが浸透してきたときに
ユートピアというものがこの地上に現れるのです。


すべて原点は心であり、
神の教えであり、
法であるということ。

そのことをあなた方が、今あなた方がやることが
未来の、将来の地球の子どもたち、人びとの幸せをつくっていく
その原点であり、種であるということ。

種まきであるということ。

そのことをあなた方はわかってほしい。

それがレムリアの使命であるということ。

あれもこれもやろうとしなくともよい。


イエス・キリストがおっしゃられたように
ケシの実の粒の種のたとえにあるように、「一粒の種、地上に落ちて」
救世主と呼ばれている方たち、
法の担当者という方たちは
たくさんの種をまかれるけども、あるものは石畳の上に落ちて芽を吹かず
あるものは踏まれて枯れてしまった。

でも、いくつかの種が地面の中にいって
そこで芽を吹き、大きな木となって
また多くの種を実らせていくのならば
人びとの心の中に多くの種というものが落ちていくのならば
いつか必ずやあなた方が今まいた法の種というのは無駄がなく
人びとの心に時間の流れの中で、
気づいたらどの者たちの心の中にも
その法の種というのが根づいていたというふうな時代が
必ずや時の流れの中でくるでしょう。


今やっていることをわずかな仕事だと思わず
最も偉大な仕事であるという誇りをかけて
あなた方は最後まで、
命をかけて情熱的に
この使命を果たしていただきたいのであります。


この法の一粒の種、
人びとの心に落つることを我は心より祈願し
これこそが神仏の使命であり、
大いなる神の御心であり
神の計画を練っておられる、
この天上界の神々の
本来の願いであるということを私は今日伝えたいと思います。


(2005.3.17 レムリア・ルネッサンス)



黄玉婚式のお祝いの予定を変更し

和歌山に向けて

謝罪と愛と感謝の光りを贈ります虹虹虹


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