『 2012/03/16 11:45 』更新


ピリポ・カイザリアでの出来事。
ピリポ・カイザリアというのは、イスラエルの北端になりまして、ヘルモン山のふもと、言うなれば、イエス様の宣教の折り返し地点となります。

この場所は、ヘルモン山の雪解け水が湧き上がっている場所でして、イスラエルには珍しく水が豊富で、糸杉のような木々の緑も豊富なところ、ヨルダン川の源流となっているような場所です。

そこに、ヘロデ大王の息子ピリポが町を作り、ローマ皇帝カイザル(英語でいうところの、ジュリアス・シーザーになるんですが)、両方の名前を取りまして、ピリポカイザリアという街になっていました。
今では遺跡のみが残っているんですけれども、この街の中心には、高さ100mくらいかな、岩というより崖がそびえていまして、そこにギリシアの神様「パン」が祭られ、神殿が建てられていたんですね。

言うなれば、他の神々、偶像礼拝中心の街です。そこでイエス様が弟子たちに尋ねられているシーンです。
「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
まあ当時の人たちは、バプテスマのヨハネだとか、エリヤだとか、いろいろなことを言っていたようですが、

16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

ここでペテロは、「生ける神の子キリスト」だと告白するわけですが、ただ「神の子キリスト」ではなく、「生ける神の子」、岩に刻まれたような死んだような神ではない、あなたこそ、正真正銘、生きとし生ける神の子、キリストである…ということなんです。

もちろん、このとき初めて、ペテロや弟子たちがキリストを信じたというわけではないと思います。イエス様に、何か特別なものを感じたからこそ、これまで彼らはついてきたわけでですよね。でも、彼らもユダヤ人ですから、実際に、神が人になる、あるいは人を神として信じることは、ある意味、恐ろしい、違っていれば死にも値する、怖いことでもあったはずなんです。
ですが、この直前にも、7つのパンを4千人に与えていく奇跡を目の当たりにしたわけですが、そんなイエス様が成すことを見、また人格的な交流もありながら、この方こそ、100%人でありながら、100%神、まさに天地万物を創り、荒野でマナを降らせ、人々を救い、人々を生かす神ご自身であるという確信へとなっていったわけです。

16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

ペテロもそうですし、私たちもまたそうですが、私たちの信仰というものも、私たちが信じるようで、実は「はじめに、神が…」なんですよね。
はじめに神が、天と地とを創造された。はじめに神が、イエス・キリストをお遣わしになる。はじめに神が、聖霊を送ってくださる。実に信仰というものも、私たちが信じているようで、はじめに、神が与えてくださっている恵みなんですよね。

16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。
ここでは、聖書が書かれたギリシア語と、当時、実際に話されていたアラム語が混ざっているので、ちょっと、ややこしくなっています。

先に出た「バルヨナ」というのはアラム語で、ヨナの子という意味、シモンが本名です。
ぺテロは、あだ名なんですが、これは、ギリシア語に訳したもの。
アラム語では ケパ…、岩という意味です。パウロは、手紙の中では、よく「ケパ」と呼んでいますが、これが本来のアダ名なんですね。
イエス様も、当然、このとき、アラム語でしゃべっていたはずですから、

あなたは、ケパ、岩だ。この岩の上に、わたしの教会を建てる。これが順当なところだと思います。
ここからが、今日の本題なんですが、先ほどお話したように、このピリポカイザリアには、崖のような、本当に巨大な岩があるわけです。

そこで、あえて、イエス様から、あなたは岩だと言われたとしたら、どうでしょう。
ぜひ、高さ100mはあるような巨大な岩が目の前にあることを想像してみていただければと思うわけですが、それに比べたら、人間なんて小さな存在です。
自分の何が岩だって言うんだろう??そんな感じもしませんか?

ぺテロというと、おっちょこちょいで、イエス様の前では、よくたじたじになっていますが、このあとも失敗して、「下がれ、サタン」まで言われているんですよね。

でも、イエス様は、そのぺテロに、なぜ、岩だと呼んだんでしょうか。
これが、今日のお題です。

またね、竹下が、妙なところに、疑問を持ち始めたって思われちゃうかもしれないんですが、どうして岩だったと思います?
そんなこといったって、イエス様が、岩だって呼んだんだから、そうなんでしょう…といわれてしまえば、そうなんですけどね。

もともとの名前、シモン…というのは、聞くもの。従順である。という意味です。
これも、なかなか、いい名前でしょ。
でも、イエス様は、そのシモンという名をおいてまで、あえてケパ、岩だと呼んだ。
そこには何かしら意味もあるような気がするじゃないですか。

たとえばですね、ぺテロはそもそもガリラヤの漁師ですから。
案外、頑固者だったのかもしれないですね。人の言うことなんか聞かない、思ったことはやってみる、やってみないと気がすまない、お前はシモンじゃないよな~、ケパ、岩だよ、なんてアダ名がついたんなら、わかるような気がするじゃないですか。
これは全くの私の想像ですが、アダ名って、そういう風につくんですよね。

普通に解せば、キリスト信仰ということになるんだと思います。
でも、ぺテロが岩のような大きく固い信仰の持ち主だったのか?

…というとですね、そうでもないような気がするんですよね。
聖書では、どちらかというと揺らぎ、迷い、逃げるぺテロの姿が描かれているわけです。

荒れた湖を歩いてきたイエス様に、私も傍に行かせてくださいといって…湖の上を実際に1歩でも2歩でも、歩いたんですよ。でも、怖くなって、ドボンと沈んで、溺れちゃう。
またイエス様が捕らえられた時、それでも、がんばって、大祭司カヤパの官邸までついて行くんです。でも、そこで、三度、イエス様のことを知らないといってしまう。

これが、ぺテロです。
その時のペテロには、自分が、まるで石ころみたいな存在に感じられたのかもしれない。岩のような揺るがない意思や信仰まで持っていたか…というと、決して、そういうわけではなかったんですよね。

それでも、イエス様は、あなたは岩だ、キリスト信仰が刻まれたあなたは、目の前にあるような岩になる。そう語られた。ここに、イエス様の心があるんではないかと思うわけです。それは、ペテロの何かではなく、生ける神ご自身がそう語り、そう働くからです。