私は音楽では激しいもの、狂気がドロドロと渦巻いているようなものがすこぶる好きだ。

(うーむ、性格が悪い奴にぴったりの好みだな...)

ところが絵画に関しては、とことん優しい、明るい、癒されるような美しい絵が好きである。


例えば、最も好きな曲の一つに玉虫君 (本名ラフマニノフ)の「ピアノ協奏曲第2番」がある。

これと似たイメージをもつ絵画として浮かぶのが、実はムンク「叫び」なのだ。

そう、あの恐ろしい(?)絵。

さらに言えば、ピアノを弾く方ではブラームス「ラプソディー(狂詩曲)第2番」もイメージが重なる。

あくまで私の中でのイメージだから、他の人がどう解釈するか知らんけど。


ラフマニノフのP-コン2は聴く度酔いしれるし(但し演奏が好みならの話)、ブラームスのラプソディー2番はもう何年も最も思い入れのある曲の一つで、無性に弾きたくなることがある。

決して美しい曲ではないが。

ラフマニノフのP-コンは美しいよ、玉虫のごとき輝きで。

(玉虫の輝き?...)


ところがムンクの「叫び」は正視すらできない。

そんなことしたら一遍で頭がおかしくなりそうで、恐ろしくてとても見ていられない。

あの絵からほとばしり出る狂気には身がすくむ。

あんなもんどうやって描けるのか、正常な精神で描けるものなのかと不思議にも思う。

だって描く以上、それこそ凝視しながら描くんだろうし。


そういえばムンクの別の絵でこれに勝るとも劣らない不気味な絵があったな。

虚ろで焦点の合ってない目をした沢山の人達がこちら(正面)を向いているやつ。

タイトル忘れたけど。

(↑何でも忘れるサル。頭への血のめぐりが悪い からしょうがないけど)

あれも正視したら途端に気が狂いそうで、まともに見られない。

恐ろしい。


この違いは何なんだろう?

音楽でなら私は寧ろそういうものを求める。

自分で弾くということに関しては特に、内なる狂気を吐き出すというか。

(おお、何かカッコいいな)

いやーははは。

あ、でも優しい、明るく包み込むようなベートーベン「悲愴」の第2楽章みたいなのも思い入れたっぷりに弾くの好きよ。
(↑実は他に弾くのが好きな第2楽章は思いつかない。つまりこれだけ例外)

聴く方でもそこに渦巻く狂気に身をゆだねるのが快感というか。

なのに、絵画ではまともに対峙することもできない。


優しい、きれいな絵が好きである。

といっても、東山魁夷までいくと軽過ぎ。

20代までは大好きで、画集も持ってたくらいなんだけどね。

当時も白馬シリーズは幼稚で嫌いだったが、30代以降は他の絵も嫌いになった、わけではなく、興味を持てなくなった。

今でもきれいだとは思う。

見る機会があれば見たいかなとも思う。

だが浅いのだ、深みがない。


ペラペラの紙または板・屏風に描かれたその薄さのままで、奥行きが感じられない。

奥行きと言っても、遠近法とかの絵画の技法のことじゃないよ。

絵の裏に潜む「何か」が感じられないのだ。

随分前同じ振付でもジョルジュ・ドンの「ボレロ」には思想性があったが、他の人の「ボレロ」を見た時にはそういうものが全く感じられなかったと書いたことがあったけど(クリスマス・コンサート) 、それと同じことが言える。


東山魁夷の絵はきれいだが、思想性がない。

きれいだし、唐招提寺の屏風絵なんか、生で見るとやはりそれなりの迫力がある。

(唐招提寺まで見に行ったのではなく、展覧会で見た)

今でもあの屏風絵の何枚かは結構好きな方。

だが...そこまでなのだ。

その奥がない。

幸せな人だったんだろうな...

そういえば彼はモーツァルトが大好きなんだった。

(モーツァルト・ファンの皆さん、人それぞれですよ、怒っちゃだめですよ。東山ファンの人も。って、一々フォローしなきゃならんようなこと書くな!)

でも彼の絵とモーツァルトの曲ってやっぱりイメージ的には凄く重なる、私の中では。


ムンクの絵は見ることもできない。

それでもそれは薄い紙(板?)の裏に深い深い底知れないものを感じて、だからこそ正視できないほどに立ちすくむ。


昔々、まだ家族と住んでいた頃、とっていた新聞社の主宰する美術展の券をよく貰っていた。

家族全員絵が好きで、その都度行きたい者が行っていた。

私も随分行ったが、ある時貰った券を見て、これは絶対行きたくないと思ったことがある。

小さな券に小さく印刷されているだけの絵の1枚に、ムンクとはまた違う恐ろしさを感じて、到底見に行けない、見たくない、と思った。


この時は母が友達と見に行き、「確かにきれいな絵ではないけれど、強く訴えかける深いものがある」と感想を話していた。

その画家はシベリア抑留から生還した人で、当時の思いその他を絵に託しているのだとも。

なるほどと思う。

そういう人が描く絵には言葉にならない重さ、深さがある。

見られない自分の弱さは情けない。

私は視覚面ではからっきし意気地がない。


昨日(8月23日)はシベリア抑留指令から65年目。