いつも私が心配しているのは、心をいらだたせ、誰かへの怒りや憎しみがあるなら、それはストレスにつながりかねないということ。


人はそれぞれに、生まれ育ってきた環境や経歴も異なるので、好みも性格も全然違う人同士が集まって社会を構成している生き物です。

直感的に人を好きになったり嫌いになったり、理由なく相手をいじめたりさげすみたくなったりすることもある。感覚が違うからと。

自分と同じような考え方の持ち主には、それと心から同調することができるため「類は友を呼ぶ」ともいって、意識して連れ添いあう。


人間として、通常知覚できる五感の世界を現実生活に結ぶのは、意識の領域に自分の心があり、理解できることを考えてゆくものです。

そして無意識のうちに人は、自分と愛するものを守ることの必要から、直感する能力を持って、世界の状況を判断して生きています。


ただそういう直感的判断能力をあまり過信すると、自分本来の人としての存在の根幹を揺るがすことになり、幸せを逃がしてしまう。


心理的なストレス反応となって自分の中で増殖し、自分の体も苦しめることになるのが、人に対しての怒りや恨みや憎しみですから。


特定個人にでなくても、自分の中でそういう思いだとか人を許せない気持ちが強い人は、実際、本当に不幸になってしまうものです。


トラウマとか、因業みたいなのがたくさん積み重なってる人は、ちょっとしたことで人を裁くけど、それは人間の本能のようなもの。


人を許せない気持ちが強い人ほど、どんなに自分が人に良いことして何か善を施していても、不幸になってしまう傾向があります。


それは意識の中で、人間の本能というより、理性と感性の間にある確信的な判断能力の中で、自由意志で選択しているものですから。


それこそがまさしく問題解決の核心部分であり、人間本来の生まれ持った命の根源に関わるもので、愛の心があるかどうかなのです。


感謝と喜び、幸せと平安な心があれば理想は現実に叶えられるというが、表面の意識だけでなく心の底からでないと意味はないです。


自分から気を利かせ、小さなことにも迅速に行動してみたり、たとえ器用ではなくてもアクティブに動ける人は、人から慕われます。



この人なら信頼して何かをまかせておいても大丈夫だろうと思われる人は、現実問題に対処するにあたっても、アクティブな人です。


目の前で大変な事があっても一切自分には関係ないと放っておき、見て見ぬふりするような人は、自分も人からは相手にされません。


ちょっとしたことにも気を配り、相手を思いやる気持ちだけでなくそれを即行動にできる人の周りには、人も集まり信頼もされます。



そういうのが嫌な人は、自分から人に声をかけることもなく、誰からも声をかけられることもなく、信頼される仲間ができないです。


それでまたいじけてしまうなら、
そもそも好きな事しかしたくない人で、自分から人を遠ざけており、自分自身が全ての原因です。



相手の話を聞けるよう努力して、自分も話す事が好きな人間になり、人の話を聞けるようになれるなら、感謝と喜びが生まれます。



そうすれば自分から、今までこれほど人からは一生懸命によくしてくれていたんだと気づくことが出来て、幸せな気持ちになります。



人のためにアクティブになることは、自分が積極的に動くこと。自分の日常を、一生懸命に頑張って解決してゆく努力こそ大切です。




それをいつもいい加減にして、自分だけの基準で人を見るなら、そんな態度では、人間関係なんてとても構築はできないでしょう。


歩み寄り、お互いに助け合い支え合い、理解を深めてゆくからこそ、人というのは人間関係を構築する努力をしようと思うのです。


そんなの金パっつぁんの世界だけやんと思うならとても残念です。
お前達は腐ったミカンじゃない!人は人と支え合って人なんだと。


顔は痣がついたら先生にバレて面倒だからボディだけにしときな。三原じゅん子議員を見てそのセリフを思い出す人は年がバレるが。


心の中で人を許せない気持ちが拭えない人は、自分のボディーにダメージを与えているのです。顔に表れなくてもストレスはたまる。


もし本当に、幸せな人生を送りたいと願うのであれば、自分から積極的に人を寛容的な心で見て、せめて愛の気持ちを持つことです。