19世紀も中頃になると、憲法を有していることが近代国家としての体面をあらわすものになった。
18世紀末のアメリカやフランスの憲法の精神が形骸化していったともいえるし、反面普遍化していったともいえる。
その流れを汲んで近代化を急ぐ日本でも、1889年に大日本帝国憲法が発布された。
プロイセン憲法を参考にしたという。
もちろんプロイセン憲法は、19世紀中ごろにはやった近代国家の対面をつくろうためのものだ。
中身はプロイセンの国情に沿った国家主義的なもの。
それにしても、アメリカといい、フランスといい、よくも人間の理性にのみ信を置いて、国家の根本をきめたものだ。
そう批判したのは、憲法の祖国、イギリス。
バーグやバジェットは、人民などはまったく信頼に足らず、自国の歴史と伝統を絶対視し、王を最終的な権威とした寡頭政治を擁護した。
王は神秘的であり、政治には超越していなければならない。
なんと、これだけ見れば、大日本帝国憲法を想起せずにはいられないではないか。
大日本帝国憲法を起草した伊藤博文ほかの面々は憲法の研究のために渡欧したが、そのときに彼らイギリス人の論文を目にしていたのかもしれない。