検索結果は168件で現在まで58件しか紹介していません。半分以上がこの10年に偏っているのも内地渡航(移住)の件数が増え、朝鮮人が増えたのも関係していると思われます。(兵庫県在住朝鮮人数 昭和2年:14,322人⇒昭和11年:58,485人、全国では昭和2年:165,286人⇒昭和11年:690,501人)
 それでは昭和11年以降を紹介していきます。
●昭和11年
『半島同胞の秀才学童/一番打通し』 大阪毎日 1936/1/30 阪神 〔7/13〕 伊丹・兵庫 【社会】

→このころになると最初期に渡航した世代の子弟が学校教育で、好成績を残しはじめたってことかな?

『頭上へ落ち』 大阪朝日 1936/5/16 阪神 〔9/13〕 伊丹・兵庫 【労働災害】

→労災です。

『伊丹の火事(トラック運転手)』 大阪毎日 1936/6/18 阪神 〔5/5〕 伊丹・兵庫 【火災】

→トラック運転手と書いてるから免許取得等を考えれば滞在期間が長いと思われる。

『朝鮮人にも戸数割賦課/稲野村の増収計画』 大阪毎日 1936/7/10 阪神 〔5/5〕 伊丹・兵庫 【政策】

→「戸数割賦課」とは=当時の主な税は、国税:地租、県税:国税地租の付加税であった地租割と独立税の戸数割、町村税:国税地租と県税戸数割の付加税で、町村では徴収事務が委任代行されていた国税・県税と、独自の財源である町村税が徴収されていた。戸別割の基準となる県税戸数割の賦課にあたっては、町村が独自に等級を設け、等級ごとに定めた額を各戸に割り当てるという方法がとられていた。そのさい、 戸数割の等級・賦課額は、各戸の資産や所得などの見立て(査定)にもとづき毎年の町村会で決議され、区(大字)を通じて公示されたが、根拠となる審査基準 が明らかにされたわけではなかった。(「福井県史」通史編5 より 一部改変)
 つまりは、朝鮮人の人口は増えても村の財政に影響がなかったが、これからは応分の負担を求めたということか、村の財政も厳しかったのかもしれない。さすがにこの時代の資料は図書館で調べるしかない(存在してるか怪しいけど)ので、詳しい経緯は不明。

『幼児小川に墜死(川辺郡稲野村)』 大阪毎日 1936/8/16 阪神 〔8/13〕 伊丹・兵庫 【社会】

→今も似た事件が起こりますが、防ぎようがないものなのか。

『半島の義金』 大阪朝日 1936/9/8 阪神 〔8/13〕 伊丹・兵庫 【融和】
『朝鮮風水害義金(想古契員)』 大阪朝日 1936/10/7 阪神 〔5/7〕 伊丹・兵庫 【社会】

→同一の出来事ではないが義援金ということで併記。朝鮮半島では水害や干害が数年おきに起こる為農村を離れ移住する朝鮮人が増えることになる。

『内鮮相助会の演習対策』 大阪毎日 1936/9/14 阪神 〔7/13〕 伊丹・兵庫 【融和】

→以下「内鮮相助会」の記事についてコメントしない場合あります。

『(沿線おちこち)(内鮮相助会など合併)』 大阪朝日 1936/10/7 阪神 〔5/7〕 伊丹・兵庫 【融和】
『幼女即死/トラックに刎らる』 大阪毎日 1936/12/16 阪神 〔5/10〕 伊丹・兵庫 【交通事故】
●昭和12年
『伊丹署の内鮮融和策懇談』 大阪毎日 1937/2/13 阪神 〔5/13〕 伊丹・兵庫 【融和】
『昼は土工夜は先生/半島出身の一青年が郷党子弟のため塾を開いて(川辺郡神津村)』 大阪毎日 1937/7/12 阪神 〔8/13〕 伊丹・兵庫 【社会】

→のちの国語講習所と関係あるのか?

『自転車乗り重傷/トラックと衝突(トラック運転手)』 大阪毎日 1937/7/16 阪神 〔5/10〕 伊丹・兵庫 【交通事故】
『半島出身者の燃える熱誠』 大阪朝日 1937/8/5 阪神 〔8/13〕 伊丹、尼崎・兵庫 【献金】
『半島同胞からもぞくぞく/築かれゆく本社慰問資金の山』 大阪毎日 1937/8/10 阪神 〔5/9〕 尼崎、伊丹・兵庫 【献金】
『不良を一掃』 大阪朝日 1937/10/9 阪神 〔7/9〕 伊丹・兵庫 【社会】

→学校に行ってない青少年の一部か?※どの程度かわからないが学校に行ってない朝鮮人子弟がいた。この時期は朝鮮人の内地への渡航が規制されていたので密航者が子連れなら未就学児が発生しても不思議ではない。

『警察の温情に賭博を自首/伊丹署の美談』 神戸新聞 1937/10/17 〔5/9〕 伊丹・兵庫 【社会】
『伊丹協和会十八日発会式』 大阪毎日 1937/12/15 阪神 〔11/13〕 伊丹・兵庫 【融和】

『(沿線おちこち)(伊丹協和会発会式)』 大阪朝日 1937/12/16 阪神 〔7/12〕 伊丹・兵庫 【融和】
『伊丹協和会花々しく発会』 大阪毎日 1937/12/19 阪神 〔6/13〕 伊丹・兵庫 【融和】

今回はここまで。昭和13年は件数が多かったので次項で。