「情緒」を美しく耕すために | 象の夢を見たことはない

「情緒」を美しく耕すために

超微細な次元における生命のふるまいは、恐ろしいほどに、美しいほどに私たちの日々のふるまいに似ている

というのは『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一著 講談社現代新書)の帯の言葉だ。
この言葉を書いたのは内田樹。『生物と無生物のあいだ』は新書大賞とサントリー学芸賞をダブル受賞している。同じく帯によると65万部を突破したそうだ。が、アマゾンのカスタマーレビューでは酷評されている。売れる本と売れない本のあいだに何があるのはわからない。

その内田樹の『日本辺境論』がレジ机の横に積んであった。「売れているから」らしい。位置づけ的にはスーパーで言えば、ガムとか電池とかが置いてある場所。表紙だけで内容を見ずに買われていく。そういう場所。

モノというのは場所を選ぶ。
もちろん、場所を選んでるのは人なのだが無意識なのか意識して置いているのか。
そのあたりにもなにかはあるのだが、私は売れているという事実よりこちらのほうを信じている。

小林:たとえばエントロピーという一つの量があるでしょう。ところがこれを、熱現象と理解するための或る物質的量としてはっきり受け取ることが僕らには非常にむつかしい。言葉として受け取ってしまうのです。そうするとこの宇宙はだんだん絶滅していくとか、デグレードしていくとか、そういうふうに意味をとるでしょう。ところが熱力学というのはそういうことに全く関係がない。それを宇宙全体、人類の全歴史まで含めたもののなかに拡張するなどという意図はないわけです。…
だから私はそこに今の日本の文化の大きな問題があるのではないかと思います。ということは、科学というものの性質をはっきりのみ込んでいないということで、これを認識させる教育をしなければいかんのです。科学は何を言い、何を言わないかという。
(『人間の建設』新潮文庫より)

昨日のアクセス解析を見てたら、http://ameblo.jp/aimis-u/page-25.htmlというのがトップだった。何故?で、そこを読み直したら同じことを書いてた。いわく、

限られた数の脳細胞で世界全体を把握しようという試みは、何らかの事象を簡略化した別の事象で代替して表現する手段を脳細胞の中で取ろうとすることで決着をつけようとする。
この結果、自然現象を、あるいは身の回りに起こる出来事を、基本的な形へと象徴させようという構造的な運動が生じる。

とか

仕事の神様は、細部に宿る。
本質というものは常に目の前にしかない。

とか。

なんだか結局同じところをまわってしまうようで、砂漠をあるくとそれぞれがそれぞれの曲線を描きながら同じところへ帰ってしまうというのは人の性なのだろうかと。

メタファーは、魔術的な力を持っている。内田樹の本が売れているとすれば、そういうことなのだろうと。

ちなみに『生物と無生物のあいだ』で福岡伸一氏が最初にぶっ立てている命題『生命とは何か?』。
昔から議論されているけど、「答えのでない命題というのは問いの立て方がおかしいのだ」と誰かが言っていた。結局は言葉の定義の問題で「なにをもって生命と呼ぶか」というそれだけの話。道徳とか正義とかの哲学的命題とかわらない。分子生物学的にみればとか極端に言えばキリスト教的に言えばとかで答えは変わるから、それぞれの観点でなにを生命と定義するかという逆命題が真であってこの命題自身には意味はない。

言葉は使い方によって人を盲目にする恐ろしい力を持っている。だが、それはそれほど悪いものでもないと音楽を聞いてときどき思う。
「情緒」を美しく耕すために、ていうのは茂木健一郎氏が『人間の建設』に寄せた解説の題名。ぬぬぅやるな、茂木健一郎。
音楽が好きだ。
結論はそこでいいのかよくわからんが。。うーん矛盾。おしまい。