【宮城まり子さんが田中角栄総理にした陳情】

女優・歌手の宮城まり子さんが障害を持つ子どもたちの養護施設「ねむの木学園」を設立したのは、1968年のことでした。
徒手空拳(としゅくうけん)で始めた学園運営は数年後、すぐ壁に突き当たりました。
当時、日本の養護施設で教育を受ける予算がついていたのは、小・中学校の年齢の子どもまでであって、高校進学のための費用は認められていませんでした。
このままでは、中学を卒業する年齢になった子どもたちが、路頭に迷ってしまう。
悩んだ末、意を決した宮城さんは、官邸に直接電話をしました。
ときは1972年9月。
総理大臣は、就任間もない田中角栄氏でした。
「宮城まり子です。総理大臣にお会いしてお話したいことがあるのですが…」
1950年代から60年代にかけ、紅白歌合戦にも8度出場したことがある有名な歌手からの電話です。
驚いた秘書官は、こう応対しました。
「今から30分後、官邸にいらしてください。 ただ時間は取れません。10分ほどです」
宮城さんは官邸へ駆けつけ、部屋に入ってきた角栄氏に切々と語りました。

「田中さん、あなたは総理大臣ですから、何でも知らなくてはなりません」
「どんなことかね」
「日本では両親がいなかったり、貧しくて生活できない子の面倒をみているところを養護施設といいます。そこには素晴らしい頭脳を持った子もいます」
せっかちな角さんですが、黙って話を聞いていました。
「そこに高校進学の予算をつけていただきたいのです。 おやつも……1カ月でリンゴ1個分ぐらいですって。いくら頭が良くても中学から大学へは行けません。日本が豊かになってきているのだから、どうか予算をいただけないでしょうか」
宮城さんの頬に涙が伝いました。
この話を聞いて、角さんどう対応したか?
「そうかね。そんなことがあるのかね」
「はい」
「私は知らなかった。そういうことまで耳に入らなかった。知ってなくちゃいけないね」
「はい」
「今すぐ返事をしたいが、それは無理なので、 正月過ぎまで待ってほしい。必ず返事をする」
翌年1月、宮城さんは二階堂進官房長官に呼ばれました。
「遅くなりましたが、日本中のすべての養護施設の子が 高校教育を受ける予算がつきました」
宮城さんの脳裏に、4か月前に会った田中角栄氏の顔が浮かびました。
尋常高等小学校卒という学歴ながら、 一国の宰相に登りつめた角さんは、 誰よりも「教育」の大切さを訴え続けた政治家でした。
宮城さんは、かつて「越後の毒消し」の行商女性をテーマとした 「毒消しゃいらんかね」という歌を歌い、 この歌で紅白歌合戦にも初出場しています。
角さんは、あるいは宮城さんを新潟出身者と思っていたかもしれません。
しかし、角さんは一切そういう話をせずに陳情を受け付け、 それに応えて見せたのです。
信念の政治家の真骨頂です。
参考本:田中角栄「別冊宝島」(宝島社)
※徒手空拳
徒手空拳(としゅくうけん)とは、自分の身一つで、他に頼るものがない状態で物事を始めることや、手に何も持っていない素手の状態を指す四字熟語です。



