クレーム対応の専門家だからできる心理カウンセリングってあるんです。

クレーム心理カウンセラーの藍色シアンです。

今朝の続きを書きますね。


僕は、ずっと「罪を憎んで人を憎まず」
理解できなかった。

あの、モラル・ハラスメントの出来事を考えたって、
言葉や態度の暴力をふるった相手がいる。

そして、相手は僕に言葉や態度の暴力という
行動をとった。

その行動が罪だと思うし、
それで僕は深く傷ついた。

人と罪、両方を憎むのなら、わかるんです。
でも、罪は憎んでも、人は憎まず。

なんか、かっこよすぎるよね・・・でした。

でも、このクレーム心理学では
言葉や態度の暴力は、それ自体で力があるわけじゃない。
それを自分で受け入れてしまう、
自分の内側にある信じ込みに問題があるんだって
話してきました。

そうしたら、「罪を憎んで、人を憎まず」と、
この自分の内側の信じ込みが、つながってきたんです。

「罪」ってのは実は、自分の信じ込みのことなの?
そして、罪を憎んでってのは、
人を憎んでいる暇があったら、自分の内側にある
信じ込みに意識向けなさいってこと?

そう思えて来たんです。


人って、同じ出来事を見ても
違う意味付けをしてますよね。
それは異なる信じ込みがあるからです。

これは事実です。

例えば、「殺人」って出来事。
日常起きている「殺人」を僕は犯罪と認識してます。
でも、戦争で起きている「殺人」は犯罪とは思っていない。

もちろん頭ではわかっているつもりでも
犯罪としての殺人と、戦争の殺人は
違うものとして捉えています。

同じ「殺人」でありながらです。

では「罪を憎んで、人を憎まず」の「人」を
出来事とするとします。
そうすると罪とは、それに意味付けをしている、
その判断につながる信じ込みってことになる。

あ、そっか、それが「罪」なのかも?

つまり、「罪を憎んで、人を憎んでいる」ってのは
人を憎むことにばかり意識を向けていては、
いつまでたっても、本当のことはわからんよ、
そう言っているのかもしれません。

ここで「憎む」というのは、
自分が被害者であるとした時の、
その意識の表し方なのかもしれませんね。

つまり、自分が被害者だと思うとき、
出来事(人)に意識を向ける(憎む)のではなく、
自分の中にある、信じ込み(罪)に意識を当ててみなさい、
という事なのかなって。


もう一度、僕のモラハラの体験に
立ち返ってみると。

僕は、彼らと彼らのやったことを憎んでいる

でも、僕が仮に、彼らの言動を暴力として
受け止め受け入れる、その「信じ込み」を
持ってないとしたら。

僕は傷つくことはなかった。
彼らを憎むこともなかった。

なに馬鹿なこといってんだろう、
そんなおかしいことは受け入れられないから
はい、さよなら~って、
その生活から離れることだができたかもしれない。

かわいそうな人達だなあという程度の
気持ちにしかならなかったかもしれない。

でもそこで、僕が被害者の立場に固執して
悪いのは相手だとずっと憎み続けていたとしたら、
そして、自分の内側の信じ込みに
意識を向けなかったとしたら、

僕の苦しみは永遠に続くでしょうね。

その意味で「罪を憎んで、人を憎まず」は
自分が被害者になったとき、
その苦しみから、自分自身を救ってくれる
そんな教えなのかもしれません。

でもね、まだまだです。

正直言えば、彼らをまだ憎んでいます^^;

それは、まだ頭の中でしか、
その「罪を憎んで、人を憎まず」の解釈を、
理解していないからかもしれない。

ちゃんと腑に落ちていない。

でも、それでも「いい」!

新しい真理に気がつければ、
いつかはそれが、ちゃんと腑に堕ちる時があると、
信じているんです。

ちょっと堅苦しい口調でしたが、
この「罪を憎んで、人を憎まず」ということ、
何か一緒に感じてもらえたら、
嬉しいかなって思ってます