灘中学の入試問題を検討していて
読書の価値について書かれた文章を読みました。
いつも思うのですが、
国語の先生たちはすごいですね。
毎年毎年、
良い内容の素材文を見つけてくる学校は
それだけでも好感が持てます。
内容は「読書」の価値でしたが
学習一般について考えさせられました。
(何度も読んでいますが、
毎回感じることが違うのは、、、)
素材文では、
調べればわかるような知識でも
頭に入っていた方が連想につながって
新たな発想につながるという主旨でしたが
そもそも知識を得るとか調べることは
昔よりも今の子のほうが機会が多いと思うのです。
ただ、知識にはたくさん触れているのに
それを「流してしまう」傾向から、
知識が印象に残らないため、
知識がないのと同じになっている。
また調べれば良いと
頭に残さない傾向すらあります。
何でも簡単に調べられるので
好奇心がある子でも
サッと調べて満足して
何も覚えていないということを
よく見かけるのです。
学びて思わざれば則ち殆し
知識を得てから思索することが
真の学びのあり方であり
「最初の学び」は学びのスタートであって
まだ価値を得ていない状態です。
そして知識を得ても
そこに何かしらに思索がないと
知識自体が定着しないし、
理解も深まらない。
ところが、今どきの傾向は、
学びて思わざればの「学びて」の段階から薄いのです。
大量の知識が得られなかった時の方が
考える習慣があったということかもしれません。
中学受験の取り組みは
とても価値が高いと思うのですが
消化しきれない大量の知識や技術と
日々格闘しなければならず、
理解を深める機会が乏しいと思うのです。
確かに日々の学習の中で
深める時間を設けるのは
とても難しいことです。
しかし、ちょっと反省して
季節講習などの期間に、
しっかりと理解を深める企画を
設けるようにしようと思います。
読書というのは、「文字」と向き合うせいか、
様々思索が広がって、
内容以上に広い世界を体験できると思います。
検索して得る情報ではなく
他人が(自分の興味と違う方向で)勝手に書いた
文章に触れることは、
知性を磨くのに必要な機会だと思います。
陳腐な主張ですが、
読書はとても大事だなと思います。
読書と思索の時間を持とうと思います。