『源氏物語』第4帖「夕顔」~第5章~
夕顔⑤【もののけと夕顔の死】
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いさよふ月に、ゆくりなくあくがれむことを、女は思ひやすらひ、とかくのたまふほど、にはかに雲隠れて、明け行く空いとをかし。はしたなきほどにならぬ先にと、例の急ぎ出でたまひて、軽らかにうち乗せたまへれば、右近ぞ乗りぬる。
そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し。霧も深く、露けきに、簾をさへ上げたまへれば、御袖もいたく濡れにけり。
「まだかやうなることを慣らはざりつるを、心尽くしなることにもありけるかな。
いにしへもかくやは人の惑ひけむ
我がまだ知らぬしののめの道
慣らひたまへりや」
とのたまふ。女、恥ぢらひて、
「山の端の心も知らで行く月は
うはの空にて影や絶えなむ
心細く」
とて、もの恐ろしうすごげに思ひたれば、「かのさし集ひたる住まひの慣らひならむ」と、をかしく思す。
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【夕顔166-1】いざよふ月に
【夕顔166-2】
【夕顔166-3】
【夕顔167-1】はしたなき
【夕顔167-2】
【夕顔167-3】
【夕顔168-1】そのわたり
【夕顔168-2】
【夕顔168-3】
【夕顔169-1】霧も深く
【夕顔169-2】
【夕顔169-3】
【夕顔170-1】まだかやうなる
【夕顔170-2】
【夕顔170-3】
【夕顔171-1】慣らひたまへり
【夕顔171-2】
【夕顔171-3】
【夕顔172-1】心細く
【夕顔172-2】
【夕顔172-3】
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御車入れさせて、西の対に御座などよそふほど、高欄に御車ひきかけて立ちたまへり。右近、艶なる心地して、来し方のことなども、人知れず思ひ出でけり。預りいみじく経営しありく気色に、この御ありさま知りはてぬ。
ほのぼのと物見ゆるほどに、下りたまひぬめり。かりそめなれど、清げにしつらひたり。
「御供に人もさぶらはざりけり。不便なるわざかな」とて、むつましき下家司にて、殿にも仕うまつる者なりければ、参りよりて、「さるべき人召すべきにや」など、申さすれど、
「ことさらに人来まじき隠れ家求めたるなり。さらに心よりほかに漏らすな」と口がためさせたまふ。
御粥など急ぎ参らせたれど、取り次ぐ御まかなひうち合はず。まだ知らぬことなる御旅寝に、「息長川」と契りたまふことよりほかのことなし。
日たくるほどに起きたまひて、格子手づから上げたまふ。いといたく荒れて、人目もなくはるばると見渡されて、木立いとうとましくものふりたり。け近き草木などは、ことに見所なく、みな秋の野らにて、池も水草に埋もれたれば、いとけうとげになりにける所かな。別納の方にぞ、曹司などして、人住むべかめれど、こなたは離れたり。
「けうとくもなりにける所かな。さりとも、鬼なども我をば見許してむ」とのたまふ。
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【夕顔173-1】御車入れさせて
【夕顔173-2】
【夕顔173-3】
【夕顔174-1】右近、艶なる
【夕顔174-2】
【夕顔174-3】
【夕顔175-1】ほのぼのと
【夕顔175-2】
【夕顔175-3】
【夕顔176-1】御供に
【夕顔176-2】
【夕顔176-3】
【夕顔177-1】ことさらに
【夕顔177-2】
【夕顔177-3】
【夕顔178-1】御粥など
【夕顔178-2】
【夕顔178-3】
【夕顔179-1】日たくるほど
【夕顔179-2】
【夕顔179-3】
【夕顔180-1】け近き草木
【夕顔180-2】
【夕顔180-3】
【夕顔181-1】別納の方
【夕顔181-2】
【夕顔181-3】
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顔はなほ隠したまへれど、女のいとつらしと思へれば、「げに、かばかりにて隔てあらむも、ことのさまに違ひたり」と思して、
「夕露に紐とく花は玉鉾の
たよりに見えし縁にこそありけれ
露の光やいかに」
とのたまへば、後目に見おこせて、
「光ありと見し夕顔のうは露は
たそかれ時のそら目なりけり」
とほのかに言ふ。をかしと思しなす。げに、うちとけたまへるさま、世になく、所から、まいてゆゆしきまで見えたまふ。
「尽きせず隔てたまへるつらさに、あらはさじと思ひつるものを。今だに名のりしたまへ。いとむくつけし」
とのたまへど、「海人の子なれば」とて、さすがにうちとけぬさま、いとあいだれたり。
「よし、これも我からなめり」と、怨みかつは語らひ、暮らしたまふ。
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【夕顔182-1】顔はなほ
【夕顔182-2】
【夕顔182-3】
【夕顔183-1】夕露に
【夕顔183-2】
【夕顔183-3】
【夕顔184-1】後目に
【夕顔184-2】
【夕顔184-3】
【夕顔185-1】をかしと
【夕顔185-2】
【夕顔185-3】
【夕顔186-1】尽きせず
【夕顔186-2】
【夕顔186-3】
【夕顔187-1】海人の子
【夕顔187-2】
【夕顔187-3】
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惟光、尋ねきこえて、御くだものなど参らす。右近が言はむこと、さすがにいとほしければ、近くもえさぶらひ寄らず。「かくまでたどり歩きたまふ、をかしう、さもありぬべきありさまにこそは」と推し量るにも、「我がいとよく思ひ寄りぬべかりしことを、譲りきこえて、心ひろさよ」など、めざましう思ひをる。
たとしへなく静かなる夕べの空を眺めたまひて、奥の方は暗うものむつかしと、女は思ひたれば、端の簾を上げて、添ひ臥したまへり。夕映えを見交はして、女も、かかるありさまを、思ひのほかにあやしき心地はしながら、よろづの嘆き忘れて、すこしうちとけゆく気色、いとらうたし。つと御かたはらに添ひ暮らして、物をいと恐ろしと思ひたるさま、若う心苦し。格子とく下ろしたまひて、大殿油参らせて、「名残りなくなりにたる御ありさまにて、なほ心のうちの隔て残したまへるなむつらき」と、恨みたまふ。
「内裏に、いかに求めさせたまふらむを、いづこに尋ぬらむ」と、思しやりて、かつは、「あやしの心や。六条わたりにも、いかに思ひ乱れたまふらむ。恨みられむに、苦しう、ことわりなり」と、いとほしき筋は、まづ思ひきこえたまふ。何心もなきさしむかひを、あはれと思すままに、「あまり心深く、見る人も苦しき御ありさまを、すこし取り捨てばや」と、思ひ比べられたまひける。
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【夕顔188-1】惟光、
【夕顔188-2】
【夕顔188-3】
【夕顔189-1】かくまで
【夕顔189-2】
【夕顔189-3】
【夕顔190-1】たとしへなく
【夕顔190-2】
【夕顔190-3】
【夕顔191-1】夕映えを
【夕顔191-2】
【夕顔191-3】
【夕顔192-1】つと御かたはら
【夕顔192-2】
【夕顔192-3】
【夕顔193-1】格子とく
【夕顔193-2】
【夕顔193-3】
【夕顔194-1】内裏に
【夕顔194-2】
【夕顔194-3】
【夕顔195-1】恨みられむ
【夕顔195-2】
【夕顔195-3】
【夕顔196-1】何事もなき
【夕顔196-2】
【夕顔196-3】
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宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上に、いとをかしげなる女ゐて、
「己がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かく、ことなることなき人を率ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」
とて、この御かたはらの人をかき起こさむとす、と見たまふ。
物に襲はるる心地して、おどろきたまへれば、火も消えにけり。うたて思さるれば、太刀を引き抜きて、うち置きたまひて、右近を起こしたまふ。これも恐ろしと思ひたるさまにて、参り寄れり。
「渡殿なる宿直人起こして、『紙燭さして参れ』と言へ」とのたまへば、
「いかでかまからむ。暗うて」と言へば、
「あな、若々し」と、うち笑ひたまひて、手をたたきたまへば、山彦の答ふる声、いとうとまし。人え聞きつけで参らぬに、この女君、いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思へり。汗もしとどになりて、我かの気色なり。
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【夕顔197-1】宵過ぐるほど
【夕顔197-2】
【夕顔197-3】
【夕顔198-1】かく、ことなる
【夕顔198-2】
【夕顔198-3】
【夕顔199-1】物に襲はるる
【夕顔199-2】
【夕顔199-3】
【夕顔200-1】これも恐ろしと
【夕顔200-2】
【夕顔200-3】
【夕顔201-1】手をたたき
【夕顔201-2】
【夕顔201-3】
【夕顔202-1】この女君
【夕顔202-2】
【夕顔202-3】
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「物怖ぢをなむわりなくせさせたまふ本性にて、いかに思さるるにか」と、右近も聞こゆ。「いとか弱くて、昼も空をのみ見つるものを、いとほし」と思して、
「我、人を起こさむ。手たたけば、山彦の答ふる、いとうるさし。ここに、しばし、近く」
とて、右近を引き寄せたまひて、西の妻戸に出でて、戸を押し開けたまへれば、渡殿の火も消えにけり。
風すこしうち吹きたるに、人は少なくて、さぶらふ限りみな寝たり。この院の預りの子、むつましく使ひたまふ若き男、また上童一人、例の随身ばかりぞありける。召せば、御答へして起きたれば、
「紙燭さして参れ。『随身も、弦打して、絶えず声づくれ』と仰せよ。人離れたる所に、心とけて寝ぬるものか。惟光朝臣の来たりつらむは」と、問はせたまへば、
「さぶらひつれど、仰せ言もなし。暁に御迎へに参るべきよし申してなむ、まかではべりぬる」と聞こゆ。この、かう申す者は、滝口なりければ、弓弦いとつきづきしくうち鳴らして、「火あやふし」と言ふ言ふ、預りが曹司の方に去ぬなり。内裏を思しやりて、「名対面は過ぎぬらむ、滝口の宿直奏し、今こそ」と、推し量りたまふは、まだ、いたう更けぬにこそは。
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【夕顔203-1】物怖ぢを
【夕顔203-2】
【夕顔203-3】
【夕顔204-1】我、人を
【夕顔204-2】
【夕顔204-3】
【夕顔205-1】西の妻戸に
【夕顔205-2】
【夕顔205-3】
【夕顔206-1】風すこし
【夕顔206-2】
【夕顔206-3】
【夕顔207-1】この院の
【夕顔207-2】
【夕顔207-3】
【夕顔208-1】召せば
【夕顔208-2】
【夕顔208-3】
【夕顔209-1】人離れたる
【夕顔209-2】
【夕顔209-3】
【夕顔210-1】この、かう申す
【夕顔210-2】
【夕顔210-3】
【夕顔211-1】内裏を
【夕顔211-2】
【夕顔211-3】
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帰り入りて、探りたまへば、女君はさながら臥して、右近はかたはらにうつぶし臥したり。
「こはなぞ。あな、もの狂ほしの物怖ぢや。荒れたる所は、狐などやうのものの、人を脅やかさむとて、け恐ろしう思はするならむ。まろあれば、さやうのものには脅されじ」とて、引き起こしたまふ。
「いとうたて、乱り心地の悪しうはべれば、うつぶし臥してはべるや。御前にこそわりなく思さるらめ」と言へば、
「そよ。などかうは」とて、かい探りたまふに、息もせず。引き動かしたまへど、なよなよとして、我にもあらぬさまなれば、「いといたく若びたる人にて、物にけどられぬるなめり」と、せむかたなき心地したまふ。
紙燭持て参れり。右近も動くべきさまにもあらねば、近き御几帳を引き寄せて、
「なほ持て参れ」
とのたまふ。例ならぬことにて、御前近くもえ参らぬ、つつましさに、長押にもえ上らず。
「なほ持て来や、所に従ひてこそ」
とて、召し寄せて見たまへば、ただこの枕上に、夢に見えつる容貌したる女、面影に見えて、ふと消え失せぬ。
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【夕顔212-1】帰り入りて
【夕顔212-2】
【夕顔212-3】
【夕顔213-1】こはなぞ
【夕顔213-2】
【夕顔213-3】
【夕顔214-1】まろあれば
【夕顔214-2】
【夕顔214-3】
【夕顔215-1】いとうたて
【夕顔215-2】
【夕顔215-3】
【夕顔216-1】そよ、など
【夕顔216-2】
【夕顔216-3】
【夕顔217-1】引き動かし
【夕顔217-2】
【夕顔217-3】
【夕顔218-1】紙燭持て
【夕顔218-2】
【夕顔218-3】
【夕顔219-1】例ならぬ
【夕顔219-2】
【夕顔219-3】
【夕顔220-1】なほ持て
【夕顔220-2】
【夕顔220-3】
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「昔の物語などにこそ、かかることは聞け」と、いとめづらかにむくつけけれど、まづ、「この人いかになりぬるぞ」と思ほす心騒ぎに、身の上も知られたまはず、添ひ臥して、「やや」と、おどろかしたまへど、ただ冷えに冷え入りて、息は疾く絶え果てにけり。言はむかたなし。頼もしく、いかにと言ひ触れたまふべき人もなし。法師などをこそは、かかる方の頼もしきものには思すべけれど。さこそ強がりたまへど、若き御心にて、いふかひなくなりぬるを見たまふに、やるかたなくて、つと抱きて、
「あが君、生き出でたまへ。いといみじき目な見せたまひそ」
とのたまへど、冷え入りにたれば、けはひものうとくなりゆく。
右近は、ただ「あな、むつかし」と思ひける心地みな冷めて、泣き惑ふさまいといみじ。
南殿の鬼の、なにがしの大臣脅やかしけるたとひを思し出でて、心強く、
「さりとも、いたづらになり果てたまはじ。夜の声はおどろおどろし。あなかま」
と諌めたまひて、いとあわたたしきに、あきれたる心地したまふ。
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【夕顔221-1】昔の物語
【夕顔221-2】
【夕顔221-3】
【夕顔222-1】「やや」と
【夕顔222-2】
【夕顔222-3】
【夕顔223-1】頼もしく
【夕顔223-2】
【夕顔223-3】
【夕顔224-1】つと抱きて
【夕顔224-2】
【夕顔224-3】
【夕顔225-1】右近は
【夕顔225-2】
【夕顔225-3】
【夕顔226-1】心強く、
【夕顔226-2】
【夕顔226-3】
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この男を召して、
「ここに、いとあやしう、物に襲はれたる人のなやましげなるを、ただ今、惟光朝臣の宿る所にまかりて、急ぎ参るべきよし言へ、と仰せよ。なにがし阿闍梨、そこにものするほどならば、ここに来べきよし、忍びて言へ。かの尼君などの聞かむに、おどろおどろしく言ふな。かかる歩き許さぬ人なり」
など、物のたまふやうなれど、胸塞がりて、この人を空しくしなしてむことのいみじく思さるるに添へて、大方のむくむくしさ、たとへむ方なし。
夜中も過ぎにけむかし、風のやや荒々しう吹きたるは。まして、松の響き、木深く聞こえて、気色ある鳥のから声に鳴きたるも、「梟」はこれにやとおぼゆ。うち思ひめぐらすに、こなたかなた、けどほく疎ましきに、人声はせず、「などて、かくはかなき宿りは取りつるぞ」と、悔しさもやらむ方なし。
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【夕顔227-1】この男を
【夕顔227-2】
【夕顔227-3】
【夕顔228-1】なにがし阿闍梨
【夕顔228-2】
【夕顔228-3】
【夕顔229-1】胸塞がりて
【夕顔229-2】
【夕顔229-3】
【夕顔230-1】夜中も過ぎ
【夕顔230-2】
【夕顔230-3】
【夕顔231-1】うち思ひ
【夕顔231-2】
【夕顔231-3】
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右近は、物もおぼえず、君につと添ひたてまつりて、わななき死ぬべし。「また、これもいかならむ」と、心そらにて捉へたまへり。我一人さかしき人にて、思しやる方ぞなきや。
火はほのかにまたたきて、母屋の際に立てたる屏風の上、ここかしこの隈々しくおぼえたまふに、物の足音、ひしひしと踏み鳴らしつつ、後ろより寄り来る心地す。「惟光、とく参らなむ」と思す。ありか定めぬ者にて、ここかしこ尋ねけるほどに、夜の明くるほどの久しさは、千夜を過ぐさむ心地したまふ。
からうして、鶏の声はるかに聞こゆるに、「命をかけて、何の契りに、かかる目を見るらむ。我が心ながら、かかる筋に、おほけなくあるまじき心の報いに、かく、来し方行く先の例となりぬべきことはあるなめり。忍ぶとも、世にあること隠れなくて、内裏に聞こし召さむをはじめて、人の思ひ言はむこと、よからぬ童べの口ずさびになるべきなめり。ありありて、をこがましき名をとるべきかな」と、思しめぐらす。
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【夕顔232-1】右近は
【夕顔232-2】
【夕顔232-3】
【夕顔233-1】またこれも
【夕顔233-2】
【夕顔233-3】
【夕顔234-1】火はほのかに
【夕顔234-2】
【夕顔234-3】
【夕顔235-1】惟光とく
【夕顔235-2】
【夕顔235-3】
【夕顔236-1】からうして
【夕顔236-2】
【夕顔236-3】
【夕顔237-1】忍ぶとも
【夕顔237-2】
【夕顔237-3】
【夕顔238-1】ありありて
【夕顔238-2】
【夕顔238-3】
◇登場人物一覧◇