幼い頃から脳裏にこびりついた情景が今も私の心から離れません。ある日 庭先の土に絵を描きながら幼い私の心には既にぽっかりと大きな穴の様なものが開いたのです。、「自分は一体ここで何をしているんだろう・・・」悲しい寂しい様な感情を抱いていました。何より肝心な生まれる事も死ぬ事も自分で決められない、選べない自分に人生の何を選択、決断出来るのだろう、という諦めの気持ちが有った為か、目的意識も無く流れのままに成長してゆき、10代の後半は書店の宗教書や精神論や人生論の書棚の前でよく立ち読みしていました。20歳の頃には、同級生に誘われ、「統一教会」に足を運び。聖書の勉強をしていく中で、納得できない部分や矛盾を多々感じ、信じる者しか救わない神・・ああ、やはりここに求めるものは無いという結論に至りました。そのうち気がつけば結婚、そして子育てと慌ただしい中に時は流れていったのですが、家庭を持っても自分の命より大切と思う子供をもうけても心の穴を吹き抜ける冷たい風を感じないでは居られないのでした。何をしていても私はここで何をしているのだろう・・・」幼いころの記憶が度々蘇り「この心の穴を塞ぐものは何だろう・・このままでは私はどうなるのだろう・・」不安だらけの日々。そんな中、子供達も高校生になった頃 一戸建ての家を建て、奔走する中でこれで埋まる事を願ったのですが同じでした。空しさ不安は増すばかり。その頃、誰にも言えない心から、溢れる気持ちをノートに書きなぐっていました。自分の存在価値や意味を全く見い出せないでいましたから、道端の草や石ころになりたい、そういうものでさえ自分より立派だと、感じていました。「君たちは自分達が何の為にこうして生きているのか、ここに居るのか、考えなくて済むんだね・自分がどこから来てどこへ行くのか考えなくていいようになりたい。今度生れて来る時は、君達のように路傍の草になりたいよ」その様な思いを抱えた結婚生活、上手くいくわけも有りません。家庭は破綻しました。その後も倫理、エホバや立正佼成会、新興宗教、寺などに足を運んだのですが、どこへ行っても求めるものに出会えない、ここにも無い、ここも違うの連続でした。ただ、本物に出逢いたい、それだけだったのに・・・求まらなかったのです。こんなに苦しいのは きっと私が前世で人を苦しめた、その報いだと自分を納得させて、表面だけ何事も無い様に取り繕って生きていました。しかし、心の中は誰にも話せる訳がありません。自分は真面目に生きているだけなのに何故・・・と、人を責める心。恨みつらみの思いが消せないのでした。結果、自分に疲れ、飲みたくないのに酒を飲み床に就く様になりました。自分の心から逃げたのです。前向きになろうとしても、過去の理不尽な人達の仕打ちを呪い、恨んでしまうのです。想いたくないのに頭の中でグルグル回るのです。こんな苦しいなら消えてしまいたい・・いつもその思いばかり。けれども 子供の存在が最後の砦で、そんな私を支え生かせてくれました。そんな考えたくも無い人を恨む気持ち憎む気持ちは、仏教の言葉でスッキリと消え楽になりました。あれから9年、心に有った空洞は無くなりましたが今も心は寂しいです。路傍の草や石ころの方が 素晴らしいと思います。