今回の記事は、自分が最近考えている事をつらつらと書く、「ただのブログ」になります。
テーマはAIの話です。
昨今、発展が著しいAIについて、皆さんはどう感じていますか?
自分の感覚としては、以前の記事でも似たような事を書きましたが、シンプルに怖いな、あるいは嫌だなと思っています。
理由は、人間をあらゆる能力において上回るAIの台頭によって、人間の存在価値を見出す事が、今でさえ難しいにも関わらず、更に困難な時代に突入すると思うからです。
ただ、一応補足しておきますが、「AIに仕事を奪われるから」といった文脈とは違います。本題の議論に入る前に、この点について少し説明させてください。
誰しも子供の頃、「将来どんな職業に就きたいか」という質問を投げかけられると思います。自分はいつも第一感で「働きたくないな~」と思っていました。
だから自分は子供の頃から、機械がありとあらゆる「退屈な仕事」をしてくれる未来になればいいなと本気で考えていました。
どうして大人は働きたがるの?どうして「楽な社会」を目指す感じの空気感じゃないの?
科学技術の発展によってここまで便利に暮らせるようになっても、どうして世の中は「経済競争」を続けるの?「経済競争」をやめて、障害者を助ける技術の開発とか、戦争を終わらせるとか、そういう問題に集中した方が人類の幸福に繋がるんじゃないの?
ただただ疑問でした。それは今でも変わりません。
そんな不真面目な自分からすると、「AIに仕事を奪われる」という感覚、理屈が全く理解できないのです。AIが「退屈な仕事」を奪ってくれるなら、そこに待つのはユートピアではないのでしょうか?
ちなみに、「仕事を奪われたら、お金がもらえなくなるじゃないか!」という意見は、部分的あるいは短期的な課題としては理解できますが、本質的な反論ではないと考えます。こうした意見は、「お金」という概念に縛られすぎていると思います。
AIが大部分の仕事をこなせる社会においては、「資本主義」という仕組み自体が、もはや有効な社会システムではなくなる可能性が高いです。人間が労働しなくてもいいのに現在のシステムを継続使用するなんていうのは、既存概念に凝り固まった、愚の骨頂的な発想です。
「新資本主義」、あるいは全く別の社会システムが主流になる方が自然です。理屈的には、全人類が「FIRE」できる時代が来ても、何ら不思議ではないと思います。
自分としては、そういう社会が実現できるのであれば、AIは歓迎すべき存在なのです。
では、なぜ自分がAIを怖いとか、嫌だとか思っているかというと、現代のAIは賢くなりすぎているからです。
将棋や囲碁だけでなく、今や他のありとあらゆる高度な分野において、AIが人間以上の実力を発揮できるようになってきています。
こうなると、もはや人間は「退屈な仕事」だけでなく「面白い仕事」までAIに奪われる可能性があります。
つまり、人間は仕事に対して夢を見る事ができなくなる可能性があるのです。
自分としては、それが怖くて嫌で、許しがたいのです。将棋で言えば、個人的に一番面白い戦法だと思ってる「振り飛車」が、憂き目に合ったりしているわけです。
そして更に恐ろしい事に、「面白い仕事」≒「創造的な分野」にまでAIの適用範囲が広がってくると、究極的には「人間の存在意義」という話にまで発展してくるかもしれません。
だってそうでしょう?少なくともパッと見には、人間はAIに勝るものを持っていないのですから。人間が積極的にやらねばならない事が、殆どなくなる可能性があります。
それは端的に言えば、人間の生命に価値を見出せなくなるという事です。ニヒリズムの極致。ディストピアの完成です。
つまり、AIが人間の能力を上回る事は、人間の価値観やアイデンティティを容易に破壊しかねない事実なのです。
これが今回の記事の本題であり、AI時代における本質的な課題だと思います。「AI国」からの黒船がやって来て侵略されようとしているのに、「人間国」内における「仕事が奪われる」等という小事に捉われている場合ではありません。
もちろん、この黒船に反発する、攘夷志士的な動きは当然あります。
例えば、生成AIの規制を求めたハリウッドの脚本家によるストライキは有名ですね。
また、佐藤天彦先生が振り飛車を始めた理由にも、定性的には似たような面があるようです。
おこがましいですが、自分が振り飛車を選んでいるのも、そういう意味合いがないではなかったりします。
しかし冷徹に見れば、こうした動きは一種の時間稼ぎにはなっても、大きな流れを止める事は多分できないでしょう。我々は既に、人間よりも高次のレベルの存在がいる事を知ってしまったのですから。
「競争原理」が継続する限り、AIが高度化すればするほど、人間はAIを手放せなくなるでしょう。AIを手放せば、競争に負けてしまいますからね。
皮肉ですね。自らの存在意義を滅ぼしかねない存在を、生み出し続けざるを得ないというのは。さながら核兵器のように。
では、「人間の存在意義」が生き延びる道を哲学や宗教に見出すのはどうでしょうか?人間の存在意義を扱うのには、うってつけの道具・技術でしょう。
しかし、「人間の存在意義」というテーマに対して、AIの方が哲学や宗教よりも合理的かつ明確な答えを出してしまいそうです。「学問を行うAI」も開発されているようなので、「AI哲学」だって生まれそうです。
数学や物理学といった自然科学の研究まで、AIに乗っ取られるかもしれません。そうなれば、大学教授や研究者すら不要になるわけで、「天才がいらなくなる日」が来るやもしれません。
そこまで行かなくても、「発見」はAIに任せて、「検証」だけを人間がやる事になるかもしれません。「実に面白い事」をAIに奪われ、人間は「退屈な後始末」をするだけ、みたいな未来は普通に想像できます。
宗教も流石に無理筋ですか。ニーチェ曰く、我々は既に神を殺してしまってますからね。現代人は、もう神では救われない可能性が高い。むしろAIが「神」になる時代とも言えるわけで、「AI教」みたいな物が生まれても、何ら不思議はありません。
もちろん、AIも所詮は人間が作ったものなので、神にはほど遠い存在ですが、少なくとも「人間よりは上」という認識を否定するのは、時代が進むにつれてAIのレベルが上がれば上がるほど、どんどん難しくなっていく事が予想されます。その時代においては、AIを神格的に捉えるのが自然になっている可能性があります。
もし本当にそうした状況になれば、人間の生き方は「AIの思想」によって縛られていくかもしれません。
……。
結構、絶望的ですか。どうすればいいんでしょうね。正直、AI時代に希望を見出せる人の気持ちがわからないです。わからないという事は、自分はもう老害なのかもしれないですが。
個人的には、今がAI時代への「転換期」っていうのがキツイです。
いっそ、AIが全部支配するような時代にとっととなっちゃえば、なんだかんだ妥当なところで安定した社会が形成される気もするのですが、「転換期」だと、今後どうなるかがよくわからないし、前の時代への未練も捨てきれないので、無駄に不安になったり悲しくなったりするんですよね。
ただだからと言って、生きている以上、絶望した人生を許容するわけにもいかないので、精一杯、自分の信じる道を進むしかないのでしょう。
おそらくこれからの時代は、「常識破り」が「常識」になるのだと思います。なぜなら、AIが常にあらゆる分野の「常識」、しかも極めて高いレベルの「最適解っぽい常識」を提示し、更新し続ける事が予想されるからです。
何事に対しても常に新しい可能性を模索する。AIが示す「最適解っぽい常識」にも打ち勝てるようなハイクオリティのオリジナリティを追い求める。
これが"最低限"、今後、人間が生き残るために求められる事だと思います。
ここで言う「生き残る」というのは、経済的な意味ではなく、「存在意義」や「アイデンティティ」を確立できるかどうかという意味においてです。
「最低限」が非常に高いレベルにあると感じるかもしれませんが、実際の所、それだけ厳しい時代が始まる可能性があります。
人間の存在意義を問われる、文字通りの死活問題と正面から向き合わなければいけない時代が。