Oさんのこと
11月19日、かけがえのない仲間の一人、Oさんが逝った。56歳だった
私が最後に1年だけ勤務した高校で、Oさんは業務員として働いていた。1年しか一緒に仕事しなかったのに、ずっと昔から一緒に仕事をしていたような気がした。話しているうちに、共通の親しい友人がいることもわかった。話せば話すほど親近感が増していった。
学校の中で、Oさんは業務員という枠を越えた存在だった。生徒たちと気軽に喋る。時には話し込み、その相談に乗る。教師も業務員室を訪ね、Oさんに相談を持ちかける。特に女の先生にはOさんは頼りになる存在だった。相談相手になったり、食事会をしたりしていた。
業務員室は、Oさんの手作りのリースや小物で飾られていた。居心地の良い空間だった。校舎周辺にはOさんが丹精した木や草花が繁っていた。生徒も教師も掃除や整理の行き届いた校舎や校庭でそれぞれの活動をすることが出来た。Oさんのおかげだった。
Oさんは地域で子どもたちにダンスを教えていた。ダンスはOさんの生き甲斐だった。Oさんの人柄から、Oさんのもとに集まる子どもたちの中に、学校や社会に適応しにくい子どもたちが増えていった。Oさんは子どもたちと踊り、お母さんたちと談笑しながら、社会で生きにくい親子と一緒に歩んでいた。
2年前、Oさんから病気のことをきいた。乳がんだった。一年間、Oさんは病気と向き合った。Oさんの話から、ご主人や娘さんたちの支えの強さが伝わってきた。「旦那やら娘らには、正直、ほんまに感謝してるねん。」
病院でもOさんらしかった。女の先生だったこともあったのかもしれないが、主治医の先生と担当の看護師さんたちが、Oさんファミリーのようになっていった。みんなが、Oさんと強い絆を感じながら支援しているようだった。
1年後、Oさんは職場復帰を果たした。それから半年、がんは転移していた。
乳がんが改善したOさんはダンスにも復帰しつつあったが、がんの転移以降、ダンスは出来なくなった。Oさんは手作りの小物作りを地域で教えるようになった。病院でも、Oさんの受診する診察室は、OさんやOさん教室の看護師さんの作品が並ぶ、居心地の良い空間になっていった。Oさんが長年勤務していた高校の業務員室のように。
告別式では年配の先生が号泣しておられる姿もあった。そんな中、ご主人は、しっかりと自分を持して最後の挨拶をなさった。
「妻は自分のしたいことを一生懸命しました。その中で多くの人とお出会いし、素晴らしい時間を過ごさせて頂きました。多くの方々にも素晴らしい時間を過ごしていただいたのではないかと思っております。56歳という早い死ではありましたが、妻なりに十分に生ききった人生ではなかったかと思い、そういう妻を誇りに思います。」
Oさんは差別をしなかった。良いことは良いと言い、悪いことは悪いと言った。べたべたせずに、親身になってその人に寄り添った。嬉しいときはとても嬉しそうで、悲しいときは悲しそうだった。苦しいときは、しかし、苦しそうな表情を抑え、笑顔であろうと努めていた。自分に正直であると同時に、人に誠実であり優しかった。思いやりがあった。温かかった。人として、生ききった人生だった。これからも遠くから、私を含む多くの人々を、限りなく優しく、少し厳しく、見ていてくれる気がする。
