生きるために働く | 自由への逃走
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自由への逃走

投資ブログから、日々考えていること、読書で心に残ったことなどを記していく備忘録に変貌。

あぐです。

 

コロナによる自粛をきっかけに私の会社でも通勤の混雑を避けるために始業時間が遅くなり、就業時間が早くなる措置が継続しています。需要減のせいもあるかもしれませんが、働く時間は減っても仕事は案外回るものです。得意げ

 

朝遅く出社することで子供たちを小学校に送ってから仕事に行くことができ、また仕事から帰ってから子供たちをお風呂に入れることができ、こんなほんのわずかな公私のバランスの変化でも幸せを感じることができるのだなというのは新鮮な発見でもあります。

 

これまで「生きるために働かなければならない」というのは自明のこととしておそらく誰もが受け入れてきましたが、今回の変化は自分の中にこの点に関する疑問を生じさせました。そりゃ私だって仕事が楽しいこともありますし、それどころか毎日仕事へ行くのが純粋に楽しくて仕方がないという人もいるでしょうが、大多数の労働者は「仕方なし」に働いているのではないかと思います。

 

普通に生きれば80年ほどの人生の少なからぬ時間を「仕方なし」に過ごし、不平は言うものの当たり前のこととして甘受する現状は、改めて考えてみると凄いことです。また、地球上でこれだけの人間ががむしゃらに働き「生産」することによる負荷もまた相当なもので、大昔の人類がそれこそ生きるためにがむしゃらに狩猟採集しなければならなかった時代とは比べ物にならない生産性を達成した今、同じメンタリティーでいる必然性は無いどころか危険ですらあります。

 

かねてから「資本主義は拡大再生産が必要」というのがどうしても理解できず、一人当たり去年と同じ生産量で何がいけないのかと感じてきました。いや、それどころか生産されるモノの少なからぬ部分が廃棄される現状、去年と同じでなくむしろ「少なく」生産してもいいんでないかという産業は、私が身を置くファッション業界をはじめ少なからずあるでしょう。

 

定性的な話になりますが、廃棄されるものの価値は、売られるモノの価格に確実に上乗せされています。「少なく」生産することにより所得も減るでしょうが、価値をより正確に反映したモノの価格が広まる世界では今と同じ価値をより低価格で手に入れることができるはずです。

 

その結果モノの側面から見た生活の質はそれほどは変わらないのではないか。一方で確実に減るのは仕事(時間)と資源の浪費です。仕事時間の減少はいわば「自由」時間の増加です。そして浪費の減少はより良い「未来」でしょうか。政府はベーシックインカムのようなもので補助しても良いですし、政府が小さくなって市民が自由な時間を利用してこれまで政府が仕事としてきたイシューを引き受けるも良し(その分税金は少なく可処分所得も増える)。もっと大胆にGPIFが年金の代わりに国民に株のポートフォリオを配って企業の利益を長期的に還元するチャネルを与えても良いかもしれません。得意げ

 

企業は「合理的」判断により廃棄するものを含めて生産しているともいえ、上の道筋は夢物語に見えるかもしれませんが、世の原理として情報は拡散するものです。消費者は独りよがりの合理性に甘んずるビジネスを避け始めています。同じくファッション業界ではこれをビジネスチャンスとみなす新たなプレーヤーが参入し、旧態依然としたビジネスから消費者をどんどん奪い取っています。この流れはコロナで加速されており、かろうじて生き延びてきたプレーヤーもどんどん退場させられています。こうなると企業は生き延びるために合理性の基準を変えざるを得ません。

 

私は鼻息荒く「アフターコロナ」というものを騙る人々を生暖かい目で見ておりましたが、ほかならぬ自分自身の中で仕事の意味が大きな変革を受けたことは認めます。これまでのようにがむしゃらに働いてたくさんモノ買う生き方も依然として残るでしょうが、別のオプションもより明確に見えるようになりました。私は使命感というものはあまり感じないたちなので、自分で自分の自由が増える生き方へと変化していければ、まあいいかなとも思います。得意げ

 

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ブログのタイトル変えました得意げ