モノココロの対比を書いた本がある。

唯物とか唯心とか・・。


「お金」はどちらに位置するのか?



唯物思想的には、

モノの性質が強いのでしょうか。



しかし、

個人的にはモノでもあり、

ココロでもあると考えている。


お金は道具であり、価値であり、モノである。



たまに、良寛のことを考えることがある。

寒く小さく静かな空間で自己と対峙し、じっとしている、

あるいは黙々と歩く。


日々自己に学ぶ、そういうお金とは対極にいた修行僧。



彼は毎日何を考え、

何を求めていたのか?


そんなことを考えることがある。



お金を否定しているわけではない。

投資家として、自分が行っていることを

他人に理解してもらい、語ることができる必要性や

生=時間とお金の関係が大切とのことだ。



もともとは価値の仲介物だった貨幣。


そのときの価値とは労働の結果であり、産物であった。

有形性が高かったわけだ。


仲介物から変化したのは、いつだったか、どのような背景か?

今は完全に価値代行ではなくなった。


少なくとも投資というスタイル

業務となったとき、金利という思想が芽生えたとき、

・・・独自性を生んできたのだろう。

お金がお金を生む。


簡単に書くと、

生き方のひとつの要素にお金との付き合い方がある。


インドでは、

お金持ちより、知識が豊かな人が尊敬される。

そういう文化だ。


「お金で全ては買えない」



個人投資家が増大し、

投機と投資が交錯し、

ゲームと投資が微妙な関係になっている。



生き方というと、

高尚な言葉に聞こえるが、生活として、

生活のなかでのお金に対する考え方、

お金の使い方ということも含めて投資を考える必要がある。


お金のために殺人まで起こる世の中、

おかしいわけだ。



市場参加者のほんのちょっとした意識によって、

市場との付き合い、リテラシー的に。。

微妙だと、かなり微妙だと・・・。


考え方(目的)がしっかりしていないと、刹那的だし、

他人を傷つけてしまうことも頻繁にあるように思う。


個人投資家も様々だ。


自分も含めて信用売買で資金を増やすということは、

時間概念でいえば投機性が高い・・・。


グレアムがパフォーマンス競争時代、と言ったことは

機関投資家から個人にも進行している事実がある。



個人の場合は権威欲や名声欲とも絡み、

機関のそれより、もっと悲惨・陰湿かもしれない。


パフォーマンス

単に記録することの理由を

自己スタイルの確保のために実施の範囲と、

そうでないケースとがある。


投機家であり、投資家である、自己批判も含めてそう思う。



その表現だけでネット上でビジネス展開している起業家も

ちょっとだけ、賢くなって欲しいものだ。

要するに、ブログなどに、ルールや基準がないからね・・・。


確かにパフォーマンスが優れていることを権威にして、

保有株の意見を戦わせることもあるかもしれない、

が、言葉の武器、思考の武器というのは争いに近いこともある。


特に個人のそれは結果的に健康を害したり、

恨み的な要素を持つ可能性も含めて、個人的には賛成できない。



争わないで、権威的にならずに、

もっと、企業価値とか、評価方法とか、

自分を含めない客観的な事実部分が多いといい、



個人的には、そう思うな・・・。



「投資とは、詳細な分析に基づいたものであり、

元本の安全性を守りつつ、かつ適正な収益を得るような行動を示す。

そして、この条件を満たさない売買を、投機的行動であるという。」



投資家というのが一握りの市場参加者だということが、

グレアムのこの文面から理解できる。



投資の考え方に共鳴するとか、

分析力(一生懸命さ)に打たれるとか、

お金の使い方に学ぶとか、

投資成績や保有銘柄の正しさを中心に競うのではない世界。


もちろん、資金量や年代によって

思考の変遷やプロセス価値の違いはあるだろう。


こういう思いやりを必要としているのが

世界・ネット時代・情報発信時代の個人投資家の在り方だと考える。


立場は同じなわけですからね。



資本主義というのが、

資本絶対主義ではなく、

家庭・幸福な世界の基盤でなくてはならない。



~ 趣味の投資家 ~