日本人中学を卒業する生徒の25%は

現地のインターナショナルスクールに進学する。

特に親が永住状態の私にはそれが最適ではあったと思う。

そんな理由で兄はインターに進学していた。

私は家を出たい理由で中学に入った頃は

親に日本に受験をしたいとお願いをしていた。

不思議に親は許可をくれた。きっと私の受験のことよりも

自分らのことでいっぱいいっぱいだったのだろうか。。。。

後々聞いて分かったが、日本人の私に一度日本に住むことは

良い事だと親は思ったみたいだ。

でも、心のどこかで日本に住みたくない・・・・

そんな気持ちはあった。

それは日本人学校でいじめにあったことがあるからだったのかもしれない。


そんなある日、中3だった私のまえに1個先輩で

海外の高校に留学をしていたM子が帰ってきて会いたいと言われた。

その子に会い、話をした。二人のメイン話題ははM子の留学生活だった。

彼女は目をキラキラさせて今の生活を語っていた。

自由な異国の地をいつしか憧れるようになったのは

これが切欠だったのかもしれない。

家ではもう親の間の会話は無かった。

家庭内別居というのはこの事を言うんだろう。

私は家の中でなぜか郵便屋さんをしていた。

父と母は私経由で手紙のやりとりをして会話をしていた。

惨めだ・・・・・こんな家庭・・・・


数ヵ月後、父に留学希望の相談してみた。

海外の学校に留学したい!!!

日本じゃなくって他の国に行きたいと伝えた。

父は最初戸惑っていたが・・・

私の意志の強さに気づいたのかOKしてくれた。

問題は母だった。今でも私を厳しく囲って

異常に厳しい母が許してくれるわけが無い・・・・

日本人用の塾を辞め、特別英語クラスを取るようになり、母に打ち明けた。

母はマジギレ。猛反対。ヒステリックで大変だった。

何回も母と喧嘩を繰り返し粘った結果・・・・

母が選んだ条件&学校であればいいとのこと・・・・


高校は山の中にある、ど田舎の寮生キリスト教の女子高。

門限は5時であったしかなり厳しい。

それでも家にいるよりは良いと思った。

留学決定!!!これで開放される!!

そう思うとすごく嬉しかった!!!

母も私に対して段々と厳しくなり、

友達の家に泊まりに行くのはもってのこと

小学生4年生ごろから許されなかったことだった。

また、普段でも夜7時以降に帰ることは絶対に許されなかった。

母は異常に厳しかった・・・・

当時、私の通う学校のクラスでは

家で週末お誕生日会&泊まりっこ会を行う事がふつうだったが

友達のお母さんが私のお母さんに(私が泊まるのを)お願いをしても、

私は絶対に泊まることは出来なかった。

お誕生会が終わった後、クラスの女子全員を後に

悔しい気持ちでお母さんの迎えで帰るのが本当に嫌だった。


お母さんはいつもこう言っていた・・・

「泊まりっことかは事前に教えてくれれば良いのよ。

それだったらお母さんだって許可するのに。

あなたはいつも1日前に言うから・・・・・」
お母さんに怒られるのが怖くて言えずにいたが、

事前にいってみた事があったけれど結果は一緒だった。


私に当たるのはやめて・・・・ 


私が母に逆うと・・・・無理やり学校についてきて

クラスの前で怒って恥をかかすと脅かされた。

だから逆らった日の学校ではいつ母が現れるのか不安で本当にヒヤヒヤしてた。

休日、家では母に逆らうと・・・・ヒステリックな母から

お皿や家具がよく私に飛んできてた。

そんな状況に無理に逆らうかの様に、私は次第にぐれてった。

影で友達とタバコを吸ってみたりしたり、

夜中抜け出し友達とディスコに出かけたこともあったぐらいだ。

その時は大騒ぎで次の日に警察に通報されており、

警察が私を探し回っていることを知らされた時にはあきれて言葉が出なかった。

家に帰って母に会ったその場にビンタが飛んできた。


その頃私は家でお母さんに逆らってばかりで

今思うと何て親不孝な娘だったんだろうかと思う。

離婚騒ぎでいっぱいいっぱいの親に

多分当時の私は、自分の気持ちに気づいて

欲しかったからなのかもしれない。

早く・・・・この家から出て行きたい・・・・

そんな私の気持ちは大きくなっていった。。。。

ガシャーン!

大声が聞こえる。

大きな音に目が覚め、恐くて泣いてしまう。

恐る恐るドアを開けるとまた親が喧嘩をしている・・・・

父が母に暴力を振っていたり、

母が家にあるあらゆる物を投げていたりしている。

私の小さい頃の記憶はそんな記憶ばかりだ。

家族で一緒に旅行をした記憶は数回しかない。

旅行中も親の喧嘩で悲しい記憶ばかり。

日本に一時帰国をした時はおばさんの家で大喧嘩をして、

おばさんの前でどうやって接したら良いのかに

困っていた事良く覚えている。

友達の家族の食卓で食べている時にこみ上げてくる

裏やましい気持ちと悲しい気持ちが入り混じり

言葉には表せないくらい胸が熱くなる・・・・

友達の家に泊まった後は、家に帰っては

自分の部屋でよく泣いていたのを覚えていた。

小さい頃の自分は何も出来ずにただただ、

その場をじっとする事しか出来なかった。

不幸中の幸い・・・私には兄弟がいた。

一人だけじゃなかったことは本当に心から良かったと今でも思う。

親が喧嘩する夜は怖くて部屋の隅で小さくなって泣いていた。

お兄ちゃんが私をかばってくれたのを良く覚えている。

「大丈夫だよ。・・」いつもそう言ってくれていた。

当時、喧嘩があった次の日は

多々目を赤くはらして学校に言っていた。

周りが見たらきっと泣いたんだなっていうのはバレバレで、

それでも小かった私は

「昨日、私が悪いことしてお母さんに怒られたんだ。」

って必死の言い訳してた。 

喧嘩で警察を呼んできては大騒ぎになることも何回かあった。

喧嘩をした後に母が家を出て行くことが何回かあった。

家出の次の日、学校で授業を受けていると・・・・

パトカーのサイレンがなる度に母に何かあったんじゃないかと不安になり、

次第にサイレンの音や大きな音が私のトラウマとなっていった。

親は、小学校高学年になる頃には家の中で別居が始まり、

弁護士を使っての離婚裁判が始まる。弁護士との夕飯・・・・・

親についての質問攻め・・・・息苦しい・・・・・

私と兄、どっちガ引き取るかの取り合いをしている。

私も兄も答えは一つだった。どっちでも良かった。

二人が一緒であれば。。。

ただそれだけが私の希望だった。


私は現在2X歳であり、ある東南アジアの茎国出身の母と

父の間に生まれたハーフです。生まれた場所は母の母国であり

日本人としてその国で育ちました。家族は父、母、兄、私の4人家族です。


幼稚園、小、中学は某海外日本人学校で義務教育を受け、

海外の女子高に留学し、ヨーロッパの大学に進学しました。

ヨーロッパの大学を卒業した後、再び親がいる国に戻り

現在普通に社会人として仕事をしています。


今回このブログには私は今まで生きてきた人生を誰にも言えず、

この小さな心の中で今にも溢れ出てしまうくらいの辛い思いしてきました。

このブログに書くことによって誰も見ていなくとも自分を少し楽にしたい、

心の中を誰でも良いので打ち明けたいと思ったからです。

この気持ちをブログにぶつけいくことによって、

もしかしたら共感をしてくれる人がいるかもしれないし、

このブログが切欠でこの世界のどこかにいる辛い思いをしている

誰を元気付けることが出来ればなおさらだと思います。


最初にお詫びを申し上げますが、

私はあまり文章力無く、日本語の間違えも多々ある事と思いますがご了承下さい。