喧嘩とつらい1日 | アダルトチルドレンの夜職とチャットレディ体験記。

アダルトチルドレンの夜職とチャットレディ体験記。

アダルトチルドレンの生き様を現在進行形で書いたブログです。

チャットレディの記事多めです。

人に何かを教えるというよりは、奮闘記録に近いものとなっています。


同じように悩める方の気晴らしになればと思っています。

昨日、A君と喧嘩をした。まだ話が終わっていないのに、
「切るからね」
と電話を切られ

私は強い不安を感じ時間感覚の迷子になった。


時計を見たばかりなのに居ても立っても居られずまた時計を見るとまだ10分しか経っていない。
時が進むのが急激に遅く感じられ、
突然、時間をどうやって過ごしたらいいのかわからなくなってしまった。


依存に陥っている時にしばしば体験することなのだが、これがなかなかの苦痛で。

夫から見ても、様子がおかしかったようで、勤務先から帰宅した夫に
「どうしたの?」
と言われた。


実は、夫は私がチャトレをやっていることも、A君の存在も知っている。
私が話しているからだ。

さらには、私がこの一年、彼に病的な依存をしているということも。


私は夫にA君と揉めたことを話した。


他の男の影は、夫にとって許し難い悪行であり相当な苦痛であると察するが、
A君とは面識がないことと、肉体 関係がないことが男である夫にとってはかろうじて許容出来る範囲なのかもしれない。
(ほんとは許せないくらい嫌なのかもだけど)


何より強い見捨てられ不安に陥った時の私の病的な反応に対応せざるを得ないのだと思う。


私に至っては、会ったこともヤッ たこともない相手によくもまあそんなに熱心に依存できるねと自分に対して思いながらも不安を止めることが出来ずにいた。


依存というのは、コントロールを失うことだ。


それなしでは生きていけない、そのことで常に頭がいっぱいで、それを常に摂取、あるいは接触していないと自分を保てなくなる心と脳の病だ。


いくら病気だからといって、他人を傷つけてもいい理由にはならないが、依存を依存者の良心や意思の力でやめることは到底出来ない。


依存者本人が、回復したいと心から思った時に初めて回復の第一歩を踏み出すものだと私は認識している。


夫に悪いということは百も承知の上、それでもやめられない依存。

私は、不倫も依存のひとつだと思っている。


不倫をしている女性への世間の風当たりは強い。


今の私は、身体の関係がない分、不倫とは言い難い状況だが、夫と今までの私の浮気やA君のことで口論になる度、


「なんでよ?!何でそんなに私が悪者にされなきゃいけないの?!!私が女だからでしょ?!!」

と言う言葉が口をついて出る。


「私が女だからいけないんでしょ?!!私が女だからでしょ?!!女がそういうことするのが許せないんでしょう?!
浮気は男の甲斐性とか言って、男だったら許されるのに!!
女の私がそういうことするのが怖いんでしょうっ?!」

と一気に捲し立てる私。

それに対して、


「女だからとか関係ないでしょ?男だって浮気はだめなんだよ」


と冷静に返す夫。


うーん、ごもっとも。正論過ぎる。


間違っているのは私

迫害されるのは私

夫の味方になる人間はきっと大勢いるだろうが、私の味方はひとりもいない

私は恥さらし

私は孤立無援になるだろう


夫の正論が、その時の私にとってはもどかしく冷たく感じられ、どこまでも理解されない孤独の淵に追い詰められる。


感情の混乱は収まらず、怒りと悲しみで心がズタズタになってしまう。


こうした私の激しい感情表現も、演技がかった大袈裟なものとして見られてるような気がして私の苛立ちは一層強くなる。


つまり、


『何で巻き込まれてくれないの!!』

ということだ。


私は感情のトルネードそのもの。


私自身、飲まれてしまっている。


そんな時も夫は、頑として動かない岩みたいにそこにいる。


私はその時、夫の正しさ、健全さに敗北を感じる。


そして、ある種のコンプレックスが――


この人は私と違って、乳幼児期にきちんと適切な愛情を受けた人なのだという圧倒的敗北感が襲ってくる。


だから、こんなに正しく居られるんだわ。


私には無理、


だって私は愛されなかったんだから!!!



悲痛な叫びは夫に届かず、私はキーキー泣きわめく迷惑な女でしかない。


適切に愛されなかった人間は、適切に感情を出すことも出来ない。


コントロールしようと思えば思うほど、

怒ってはだめだと思えば思うほど、

依存をやめなければと思えば思うほど、


出 来 な いのだ。


そして、


私は出来ない!
私はだめな人間!と
どんどん自己否定が強くなっていく。


その自己否定を埋めるために、また依存対象に手を出す、没頭するという無限の負のループだ。


見かねた夫は、依存症を治療する専門施設を勧めてきた。


しかし、その時私は思いもよらない答えを口にしていた。


「嫌だ。私、依存をやめたくない」


私はそう言ったのだ。


依存はやめたくてもやめられないのではない。


やめたくないからやめないのだ。


本人が好きで苦しんでいるという言い方をする人もいるが、それとも違う。
依存とは、


『やめてしまったら生きていられないほどそれを必要としている』


といった飢餓状態に他ならない。

やめたいとは言っても、本当になくなったら困るというのが依存者の無意識の本音なのではないだろうか。


そんな状況で止めることに成功しても抑うつになるか他に依存する代替え手段を見つけるだろう。



だから私は、本当に依存を治そうとも思っていない、
そんな自分を見つけてしまった。


依存に限らず病気というのは、他人が治すことは出来ない。


服薬拒否する患者さんに対して思っていたことを思い出す。

私が飲んで下さいとお願いするものではない。誰のための薬なんだろう?


風呂に入らない祖母を躍起になって風呂に入れようとしていた母を思い出す。


祖母はそれでいいからそうしてる。それを母が放っておけないだけ。



苦しむことでしか表現出来ないその人の人生がある、と私は思う。



病気になって、病気を口実に人生への不満や憎しみを吐き出したい人達なのだ。私も含めて。


病気の不幸を訴える人、

そういう人は、病気でなくても不幸なのだ。


乳幼児期に愛情に満たされた人は、障害があっても、障害のせいにせず人生を楽しむことが出来る。


私はきっと諦めがつくまで、納得するまで依存の人生を歩むだろう。