その時、近所の人から「お前のような次男坊が真っ先に帰って・・・」と悪口をたたかれたのが悔しかったと聞いている。私の祖父は相場に手を出し、父の実家は田畑と家、家財道具一切を売り払っていた。そんな極貧の家にもどった父は、次男でもあり、実家にはいられないと思った。家を出ようと思っていた。
私の母の実家は、村の庄屋であり、大地主として小作人を使っている裕福な家であった。母の実家の長男が家を継ぐのであるが、母は分家として家を与えられ、婿養子をとることになった。その婿養子の話に、私の父が飛びついたのである。
私が生まれたのは、5世帯が住む大きな長屋の西の端の家であった。5軒長屋であったが、当時の日本では一般的であった。貧しいと感じたことはなかった。小学生の頃、町内で行う盆踊り大会や地蔵盆が大きな楽しみであった。当時、隣組の名残か町内の結びつきは強いものがあった。
友達の中には、2階だけを借りて住んでいる家庭などもあったし、まだまだ日本は貧しかった。鉄筋の建物が珍しかったから。町の中は、木造の長屋がたくさんあった。
結局、私は引っ越すこともなく、高校を卒業するまで、その長屋で暮らした。夏は暑く、冬は寒かったが、何も疑問に感じることもなく、もっといい家に住みたいとも思わなかった。
なぜだかわからないが、ハードとしての家ではなく、もっと違う家族というものがあったのだと思う。家族や町内のつながりが、とても居心地よかったのだと思う。