ルータ・ヴァナガイテ、エフラム・ズィロフ両氏の2019年26日の講演の個人的なメモです。英語で行われた講演を、英語が得意ではない本ブログ筆者がメモしたものをよねん経って加筆修正して掲載するものです。不正確なこともあるかもしれません。参考程度にお考えください。




1.リトアニアでのホロコースト

リトアニアをはじめ、東欧でのユダヤ人虐殺では、「ナチに協力した現地住民」の存在が大きい。ズィロフ氏によれば、他の地域では「final solution 」の初期の段階にしか現地民はナチに協力していないというが、リトアニアはじめ東欧では現地住民の関与が大きかった。住民「自ら」がジェノサイドに関与した。

 リトアニアでの殺害はガス室が登場する前のことで、銃殺により行われた。ウクライナのバビ・ヤールの虐殺なども同様に銃殺によるものである。バビ・ヤールはキエフ近郊であるが、同様の虐殺は西部ウクライナでも行われた。  リトアニアのユダヤ人のうち、生き残ったのは数パーセントであり、殺害の4分の31941年の数ヶ月で行われた。また、末期に残った3万人がアウシュヴィッツなど複数の収容所へ送られた。

 1940年にソ連にリトアニアが占領されたあと、反ソ運動が始まったが、その中には第三帝国を支持するものも多かった。

 リトアニアの市民は、「ユダヤ人のリスト作成」「銃殺現場に連れて行く」などで直接的に関わった。「祖国の為」と思っていた人が多いという。ヴァナガイテ氏は9カ月かけて証言録を読んだが、ボランティアでユダヤ人排斥に参加した人々は”killing Jews are good for country “ と思っていたという。「最初は殺人係とは知らなかったが」銃殺隊にある種の「アルバイト」のような様相で参加したものも多い。大学生の夏休みのアルバイトとして銃殺隊に入った者、郵便局での仕事と掛け持ちで銃殺隊に入りその後「銃殺隊の方が待遇が良い」ということで銃殺専門になったものもいる。リトアニアは「絶滅計画」の最初の地となり、200,000人が3年で殺害された。ドイツ人は行政には少なく、リトアニア人が中心だった。財産処分の委員会が作られ、「悪いユダヤ人から良いリトアニア人への再配分」と言う意識がもたれた。

  一方、虐殺を批判したのは少数であり、教会も政治家も沈黙を保った。調査の中で、1人拒否した兵士を見つけたが、ドイツ兵に殺されたという。227の埋葬地。







2. 戦後の受容

 ソ連時代、「ホロコースト」という言葉は教育現場では使われず、ひたすら「great war 」といった言葉で「ソ連人が攻撃された」という内容が語られるのが主であった。


 ソ連崩壊後、バルト諸国では民族主義が高まり、リトアニアでも「リトアニアはスターリンの被害者である」という点が強調されるようになった。 「誰がホロコーストを」という問いには、ドイツの犯罪であるとし、リトアニア人自分たちとは思っておらず、全体として関与していないと教えており、「3千人を救出した」などが強調されている。

 

 また「ソ連の犯罪」が強調されており、194046年にスターリンによって多くのリトアニア人がシベリアに追放された件が強調されている。(スターリンの追放ではヴァナガイテ氏の親族も多数シベリアの収容所に送られ、死亡した者もいた。)

 「どこでも犠牲者が出た」として double genocide」という、ヒトラーとスターリンを「同じレベルの(“equal phenomenon”) 犯罪者」と捉える歴史観が広まり、(法律にもなった。<:メモが不明瞭、調べればたぶんわかる>)

「悲劇だ、悲劇だ」とは語られるが、「だれが、どうして」は殆ど問題にされない。

 また、ソ連に占領された際のパルチザンが英雄視されるようになり、その中でナチ・ドイツに協力した者も反ソ英雄とされるようになった。戦後アメリカに移住したかつてのナチ協力者がソ連崩壊後リトアニアに戻ってきたが、戦時中の責任については問われなかった。パルチザンの尋問記録によれば、「英雄的でない行動があった」とのことである。



3. ヴァナガイテ氏の著書への反応


 今まで、歴史家が書いた専門書は、このリトアニアでのホロコーストについていくつか出版されていた。しかしあくまで専門書として扱われ一般に広く読まれることはなかった。そこでヴァナガイテ氏はズィロフ氏とともに既存の歴史書を読み直し、埋葬地を訪れ、証言を集め、ヴァナガイテ氏が有名なライターであることを活かし一般に広く読まれることを意図した「同胞たち」を出版した。(


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 出版は大きく注目されると共に各方面から反発を受けた。

リトアニア共和国初代大統領のヴィータウタス・ランズベルギスは「ヴァナガイテは森に行き木に首を吊るべき(大意)」といった発言までした。1998年にリトアニア政府は大統領令で「ナチとソ連の犯罪を評価する国際委員会」を始めた。委員会はホロコースト教育などもやっているが、報告書は誰も読んでいないとのことである。その会長はヴァナガイテ氏の著書について「本ではなくプーチンのプロジェクトだろう」と揶揄した。ヴァナガイテ氏は、著書の出版によって、他の歴史家であるとか、芸術家などから反応があると予想していたが、実際は多くの関係者がヴァナガイテ氏を避けるようになったと言う。

 

 その後反発が強まり、出版社は本を全て処分すると決定した。該出版社は教科書も制作しており、政府との契約に影響することを恐れたものとヴァナガイテ氏は推測している。結局廃棄はされなかったが店頭からヴァナガイテ氏の著作はこれ以外も含め全て撤去され、「同胞たち」はヴァナガイテ氏の知人のガレージに大量に保管されている。どの書店も「まだ早い」といって本を置かない。一方、図書館ではよく読まれているとのことである。ヴァナガイテ氏は有名なライターであり、多くの著作は政治問題とは関係ないものであったが、それらも全て撤去された。







質疑応答でズイロフ氏は「ファシスト、独裁者、ナチスであったり、共産主義者であったり、スラブ主義者であったりは、皆 “anti-Semitic” であったと。理由は単純でユダヤ人は常に “ Freedom and democracy” を信じていたからだ」のような発言もしていた。


また、日本の元駐リトアニア大使が発言していたが、リトアニアの政治家がよく言う「事実を認め謝罪はしている、謝っても認めてくれない、日本の中国、韓国への謝罪と似ている」ということにについて、ヴァナガイテ氏は、その謝罪は

“I apologised, what you want? I apologised, just OK” というような印象であり、「誰が、どうした」と言う話にならない限り問題は終わらないと指摘した。


また、筆者は「どうのようにダブルジェノサイドという見方が始まったか」と質問したが、ズイロフ氏はダブルジェノサイドと言う見方の成り立ち等についてはあまり言及せず、ホロコーストとスターリンの粛清の違いとして、スターリンの粛清は特定の民族などを抹殺することを目的としたものではない、と指摘した。ポロシェンコはイスラエル訪問の際「イスラエルはウクライナでのスターリンの集団農場化政策による飢餓について虐殺と認めるべき」と発言したが、「ホロコーストと違って特定の集団の抹殺を目指したものではない」ので、ホロコーストとの単純比較は適切でないとのことズイロフ氏は述べていた。